福沢索引2006年5月のブログ・小泉信三博士歿後40年[昔、書いた福沢232] ― 2020/03/11 07:04
「海行かば」の早慶戦<小人閑居日記 2006.5.13.>
5月11日、三田で「小泉信三博士歿後40年記念講演会」。 服部禮次郎さ
んの「小泉博士と福澤研究」、福岡正夫名誉教授の「経済学者小泉信三」、松尾
俊治さんの「小泉信三先生と野球」。 体育会野球部出身で、毎日新聞の運動記
者をした松尾俊治さんの「海行かば」の早慶戦にまつわる話に感動。 戦時中、
軍部や文部省は、野球・テニスを敵性スポーツとして弾圧した。 昭和18年9
月22日、政府は文科系学生、生徒の徴兵猶予を全面的に停止する特令を公布
した。 慶應野球部の、戦場に行く前に何とか早稲田と一戦をという運動に賛
成した小泉さんは、学生にとってよいことなら、自分が責任を持ってやるとい
う姿勢を貫く。 10月16日早稲田の戸塚球場で、最後の早慶戦が行われた
アマチュア、そして総合人間学<小人閑居日記 2006.5.20.>
15日の「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」丸山徹経済学部教授
の「小泉信三と作家たち」。 話を小泉信三さんが愛読した作家の内、森鴎外と
夏目漱石と幸田露伴の三人にしぼり、三人とも学者だ、という。 最近の学問
は、狭い専門領域に凝り固まっていて、学問と人倫・人情との関係がない。 そ
れにくらべ、ありとあらゆることに関心を持ち、八方に手を広げる学問態度は、
人間全体の処世学の結晶、修身をふくむものだ、といった話をした。
小泉信三さんとファールボール<小人閑居日記 2006.5.22.>
体育会野球部長をやった丸山徹さん、高校生の時、小泉さんがネット裏の貴
賓席で慶明戦を観戦中、ファールボールが跳ね返って、小泉さんをかすめ、そ
ばの人が大丈夫ですか、と尋ねているのを見た。 それが昭和41(1966)年5
月1日で、小泉信三さんはその10日後の11日に亡くなった。 実は、私もそ
の試合をネット裏で観ていて、ファールボールは、直接小泉さんに当たったよ
うに記憶していた。
『三田評論』小泉信三追悼号<小人閑居日記 2006.5.23.>
丸山徹さんは、小泉さんが経済学の授業に、一時間『運命』を語ったという
吉野秀雄さんの「小泉信三先生を偲ぶ」八首が『三田評論』昭和41(1966)
年8・9月号の小泉信三追悼号にある、と言った。 「教室の講義さしおき露
伴作「運命」説きしきみを忘れめや」「堀江気賀いまだ衰えず高橋と並び若かり
し君をしぞおもふ」「わが耳の底に残るはさびのある清き聲にて語尾ひきしま
る」。
前田祐吉監督の慶應野球<小人閑居日記 2006.5.24.>
「小泉信三君 没後40年」特集の『三田評論』5月号の「日本野球よ、永遠に」
という三人閑談。 「エンジョイ・ベースボール」の慶應野球を、必勝精神主
義の野球道と対比して語っていて、面白い。 球場でのマナーが紳士的だった
のが印象的な前田祐吉慶應野球部元監督の発言が特にいい。 「僕は前後十八
年監督をやらせてもらって、唯一自慢できるのは全員が卒業したことです。当
たり前のことだけど、監督が学生が勉強するのを妨げてはならない。学生にと
って、授業に出て勉強するのは重要な権利ですから。」 新基軸「声を出すな」、
口癖「ベンチを見るな」。
伊藤整と小泉信三さん<小人閑居日記 2006.5.26.>
桶谷秀昭さんの『伊藤整』(新潮社)に、小泉信三さんが出てくる。 小樽高
商、後の小樽商科大学は、経済学では名の知れた学校である。 当時、大西猪
之介、大熊信行が、教えていた。 伊藤整の一年上に小林多喜二がいた。 大
熊信行は、東京商大研究科のゼミで師事した福田徳三の推薦で、小樽高商に赴
任した。福田徳三は、わが国の近代経済学の草分けとして知られる学者だが、
一時、東京商大を追われ、慶應義塾に拾われた。 その慶應で、福田徳三は小
泉信三という俊秀な学生を発見した。 大熊信行は、経済原論の講義の準備を
していて、イギリス古典派及びマルクス経済学と、近代経済学の、たがいに相
対立する価値論を綜合する端緒をつかんだ、という。 似た話として、5月11
日の「小泉信三博士歿後40年記念講演会」、福岡正夫名誉教授の「経済学者小
泉信三」で、リカアドオ経済学の研究、マルクス経済学の批判で知られる小泉
さんが現代の経済学につながる道を切り拓いたという話を聴いた。
5月11日、三田で「小泉信三博士歿後40年記念講演会」。 服部禮次郎さ
んの「小泉博士と福澤研究」、福岡正夫名誉教授の「経済学者小泉信三」、松尾
俊治さんの「小泉信三先生と野球」。 体育会野球部出身で、毎日新聞の運動記
者をした松尾俊治さんの「海行かば」の早慶戦にまつわる話に感動。 戦時中、
軍部や文部省は、野球・テニスを敵性スポーツとして弾圧した。 昭和18年9
月22日、政府は文科系学生、生徒の徴兵猶予を全面的に停止する特令を公布
した。 慶應野球部の、戦場に行く前に何とか早稲田と一戦をという運動に賛
成した小泉さんは、学生にとってよいことなら、自分が責任を持ってやるとい
う姿勢を貫く。 10月16日早稲田の戸塚球場で、最後の早慶戦が行われた
アマチュア、そして総合人間学<小人閑居日記 2006.5.20.>
15日の「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」丸山徹経済学部教授
の「小泉信三と作家たち」。 話を小泉信三さんが愛読した作家の内、森鴎外と
夏目漱石と幸田露伴の三人にしぼり、三人とも学者だ、という。 最近の学問
は、狭い専門領域に凝り固まっていて、学問と人倫・人情との関係がない。 そ
れにくらべ、ありとあらゆることに関心を持ち、八方に手を広げる学問態度は、
人間全体の処世学の結晶、修身をふくむものだ、といった話をした。
小泉信三さんとファールボール<小人閑居日記 2006.5.22.>
体育会野球部長をやった丸山徹さん、高校生の時、小泉さんがネット裏の貴
賓席で慶明戦を観戦中、ファールボールが跳ね返って、小泉さんをかすめ、そ
ばの人が大丈夫ですか、と尋ねているのを見た。 それが昭和41(1966)年5
月1日で、小泉信三さんはその10日後の11日に亡くなった。 実は、私もそ
の試合をネット裏で観ていて、ファールボールは、直接小泉さんに当たったよ
うに記憶していた。
『三田評論』小泉信三追悼号<小人閑居日記 2006.5.23.>
丸山徹さんは、小泉さんが経済学の授業に、一時間『運命』を語ったという
吉野秀雄さんの「小泉信三先生を偲ぶ」八首が『三田評論』昭和41(1966)
年8・9月号の小泉信三追悼号にある、と言った。 「教室の講義さしおき露
伴作「運命」説きしきみを忘れめや」「堀江気賀いまだ衰えず高橋と並び若かり
し君をしぞおもふ」「わが耳の底に残るはさびのある清き聲にて語尾ひきしま
る」。
前田祐吉監督の慶應野球<小人閑居日記 2006.5.24.>
「小泉信三君 没後40年」特集の『三田評論』5月号の「日本野球よ、永遠に」
という三人閑談。 「エンジョイ・ベースボール」の慶應野球を、必勝精神主
義の野球道と対比して語っていて、面白い。 球場でのマナーが紳士的だった
のが印象的な前田祐吉慶應野球部元監督の発言が特にいい。 「僕は前後十八
年監督をやらせてもらって、唯一自慢できるのは全員が卒業したことです。当
たり前のことだけど、監督が学生が勉強するのを妨げてはならない。学生にと
って、授業に出て勉強するのは重要な権利ですから。」 新基軸「声を出すな」、
口癖「ベンチを見るな」。
伊藤整と小泉信三さん<小人閑居日記 2006.5.26.>
桶谷秀昭さんの『伊藤整』(新潮社)に、小泉信三さんが出てくる。 小樽高
商、後の小樽商科大学は、経済学では名の知れた学校である。 当時、大西猪
之介、大熊信行が、教えていた。 伊藤整の一年上に小林多喜二がいた。 大
熊信行は、東京商大研究科のゼミで師事した福田徳三の推薦で、小樽高商に赴
任した。福田徳三は、わが国の近代経済学の草分けとして知られる学者だが、
一時、東京商大を追われ、慶應義塾に拾われた。 その慶應で、福田徳三は小
泉信三という俊秀な学生を発見した。 大熊信行は、経済原論の講義の準備を
していて、イギリス古典派及びマルクス経済学と、近代経済学の、たがいに相
対立する価値論を綜合する端緒をつかんだ、という。 似た話として、5月11
日の「小泉信三博士歿後40年記念講演会」、福岡正夫名誉教授の「経済学者小
泉信三」で、リカアドオ経済学の研究、マルクス経済学の批判で知られる小泉
さんが現代の経済学につながる道を切り拓いたという話を聴いた。
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