福沢索引2006年6月のブログ・「明治美人帖」女学生と主婦[昔、書いた福沢235]2020/03/14 07:07

国際美人コンテストに初参加<小人閑居日記 2006.6.8.>
 芸者、セレブと来た「明治美人帖」、つぎは「女学生ブーム」だった。 明治
32(1899)年高等女学校令が発布されて、女子高等教育の道が開かれ、各県に
37校が出来た。 芸者は古い、女学生がトレンディーと、美人観が転換し、「若々
しさ、清純さ、処女性」が賛美される。 明治40(1907)年9月、国際的な
美人コンテストの呼びかけに、時事新報社が「日本第一の美人の写真を募集」、
一等賞に選ばれたのは、福岡県出身の末広ヒロ子、16歳、女子学習院中等部3
年生、小倉市長の娘だった。 時の学習院院長は乃木希典、激怒して退学処分
にし、時事新報は社説で抗議したが、結局自主退学を余儀なくされた。 後に、
乃木はヒロ子を日露戦争の戦友・野津道貫元帥(侯爵)の息子に紹介し、媒酌
人をつとめたという。

「主婦」の誕生と家父長的なイエ制度<小人閑居日記 2006.6.9.>
 “知るを楽しむ”「歴史に好奇心。」「明治美人帖」の最後は「そして人妻」。 明
治の末、日本は農業国から工業国へ変り、大量のサラリーマンが誕生した。 女
性は家庭の「主婦」として生きるのが理想であるという考え方が生まれる。 明
治31年制定の「民法」(明治民法)は、妻は婚姻により夫の家に入り、妻は夫
の姓を名乗らなければならない(夫婦同姓)、妻が夫と同居するのが義務、妻の
財産権を否定した。 江戸時代には、妻の財産権が認められていた(田畑、着
物など)から、女性をイエに縛りつける家父長的なイエ制度は、むしろ明治に
なって確立した。
 2005年11月9日から14日まで、西澤直子福沢研究センター助教授の読書
会で聴いた福沢諭吉の女性論・家庭論について書いた。 福沢が問題にしたの
は、まさにこの時期の女性と家庭についてだった。(参照 : 福沢索引2005年
11月のブログ[昔、書いた福沢222]<小人閑居日記 2020.2.22.>)