福沢索引2006年6月のブログ・近代大阪を作った慶應出身の企業家[昔、書いた福沢239] ― 2020/03/18 07:11
慶應出身の大阪の代表的企業家<小人閑居日記 2006.6.28.>
26日、三田の演説館で、福澤研究センターの講演会。 「近代企業家と福澤
諭吉」シリーズの一つ、宮本又郎関西学院大学教授の「近代大阪をつくった慶
應義塾出身の企業家、ニュー・ビジネスモデルを開発した2人―山辺丈夫と小
林一三―」。
福沢と大阪の関係から話を起し、まず慶應義塾出身の大阪の代表的企業家を
列挙した。 外山脩造(長岡・河井継之助門下、銀行家、阪神電鉄初代社長)、
黒川幸七(黒川証券)、山辺丈夫(大阪紡績、東洋紡績)、平賀敏(三井銀行、
阪急電鉄)、上山英一郎(大日本除虫菊、現キンチョール、福沢がアメリカ人を
紹介、その人が除虫菊のタネをくれた)、武藤山治(三井銀行、鐘淵紡績)、阿
部房次郎(金巾製織、東洋紡績)、小林一三(三井銀行、阪急電鉄)、里見純吉
(三越、大丸、白木屋)、小寺源吾(尼崎紡績、大日本紡績)、津田信吾(鐘淵
紡績、鐘淵実業、国際工業)、山口吉兵衛(山口銀行、日本生命、大阪貯蓄銀行)、
杉道助(八木商店、大阪商工会議所会頭)、加藤正人(鐘淵紡績、大和紡績)。
イギリスの工場にもぐり込んで近代紡績業の技術を習得してきた山辺(やま
のべ)丈夫は、明治6(1873)年11月に計画、開校され、明治8(1875)年6
月まであった慶應義塾の分校、大阪慶應義塾で数か月だが学んだ。
山辺丈夫、イギリスで紡績技術を習得<小人閑居日記 2006.6.29.>
宮本又郎教授の山辺丈夫の話。 山辺丈夫は1851(嘉永4)年、石見国津和
野(島根県)藩士の息子、ともに津和野出身の福羽美静の培達義塾、西周の英
学塾・育英舎で学ぶ。 1873(明治6)年23歳の時、父が亡くなり、大阪に
転居し、大阪慶應義塾で学び、同時に船場小学校の教員となる。 1877(明治
10)年英語を教えていた旧藩主の養嗣子亀井慈明に随行してイギリスに留学、
ロンドン大学に入学、ジェボンズについて経済学を学んでいた。留学中の山辺
に白羽の矢を立てた渋沢栄一から「イギリスで紡績技術を学び、構想中の紡績
会社に協力されたい」との手紙が舞い込む。
幕末の開港以後、安価で均斉な外国綿製品が大量輸入され、国内綿業は大打
撃を受けた。(さほど打撃を受けなかったという説もある) 明治政府は輸入を
防ぐため、イギリスから紡績機械を輸入し、愛知と広島に官営紡績所を設置し
たほか、全国10か所に安価に払い下げ、2000錘紡績を目指した。 しかし、
これは経営的には成功しなかった。 渋沢栄一が重視したのは、(1)大規模、
(2)技術の指導、事業の運営にあたる人材だった。 渋沢は山辺に1500円の
研究資金を送った。 山辺はブラックバーン市のブラッグズ工場に実習生(職
工)として入った。 綿花の買い入れから、紡績の生産全工程、販売方法、包
装など一切を学び、帰国に際しては、イギリスの会社(プラット社)から紡績
機械、蒸気機関などを購入、1880(明治13)年7月に帰国した。
山辺丈夫・大阪紡績の成功<小人閑居日記 2006.6.30.>
山辺丈夫は帰国後、紡績工場の建設に着手する。 渋沢側の計画に、大阪の
藤田伝三郎や松本重太郎を中心にした大阪商人(旧、綿業関係商人を含む)の
紡績会社起業計画が合体し、東京資本と大阪資本を合わせた28万円の大阪紡
績会社構想に発展する。 山辺丈夫が工務支配人として、技術面・生産面での
実質経営者となって1883年7月に操業を開始した大阪紡績は、当初から大き
な利益を生み出し、大成功した。 成功の要因は、(1)大規模生産のメリット。
(2)労働者の二交代制。(3)港に近く立地し、国産綿花から中国綿、インド
綿へ切り替えた。(4)製品戦略は、在来綿織物の原糸となる太糸(着物に使う)
に集中し、イギリス、インドの細糸との競争を回避した。(5)大阪の立地条件。
綿業の生産、流通の本場で、商人の蓄積があった。(6)運転資金は、渋沢の第
一国立銀行、松本重太郎の第百三十国立銀行のバックで、潤沢だった。
山辺丈夫ならではの新機軸。 山辺はイギリスの紡績技術書の翻訳をして、
部下の技師用のマニュアルをつくった。 3階建てないし4階建ての工場、現
場重視、現場の職工を大切にして、部下技術者を自前で育成した。 兼営織布
業への進出。 イギリスのミュール紡織機から、不熟練工でも扱うことのでき
るアメリカのリング紡織機への切り替え。 遠隔地募集と寄宿舎。 寄宿舎で
の福利厚生。 中国、朝鮮への輸出。 合併で、東洋紡績へ(1914(大正3)
年)と発展する。
26日、三田の演説館で、福澤研究センターの講演会。 「近代企業家と福澤
諭吉」シリーズの一つ、宮本又郎関西学院大学教授の「近代大阪をつくった慶
應義塾出身の企業家、ニュー・ビジネスモデルを開発した2人―山辺丈夫と小
林一三―」。
福沢と大阪の関係から話を起し、まず慶應義塾出身の大阪の代表的企業家を
列挙した。 外山脩造(長岡・河井継之助門下、銀行家、阪神電鉄初代社長)、
黒川幸七(黒川証券)、山辺丈夫(大阪紡績、東洋紡績)、平賀敏(三井銀行、
阪急電鉄)、上山英一郎(大日本除虫菊、現キンチョール、福沢がアメリカ人を
紹介、その人が除虫菊のタネをくれた)、武藤山治(三井銀行、鐘淵紡績)、阿
部房次郎(金巾製織、東洋紡績)、小林一三(三井銀行、阪急電鉄)、里見純吉
(三越、大丸、白木屋)、小寺源吾(尼崎紡績、大日本紡績)、津田信吾(鐘淵
紡績、鐘淵実業、国際工業)、山口吉兵衛(山口銀行、日本生命、大阪貯蓄銀行)、
杉道助(八木商店、大阪商工会議所会頭)、加藤正人(鐘淵紡績、大和紡績)。
イギリスの工場にもぐり込んで近代紡績業の技術を習得してきた山辺(やま
のべ)丈夫は、明治6(1873)年11月に計画、開校され、明治8(1875)年6
月まであった慶應義塾の分校、大阪慶應義塾で数か月だが学んだ。
山辺丈夫、イギリスで紡績技術を習得<小人閑居日記 2006.6.29.>
宮本又郎教授の山辺丈夫の話。 山辺丈夫は1851(嘉永4)年、石見国津和
野(島根県)藩士の息子、ともに津和野出身の福羽美静の培達義塾、西周の英
学塾・育英舎で学ぶ。 1873(明治6)年23歳の時、父が亡くなり、大阪に
転居し、大阪慶應義塾で学び、同時に船場小学校の教員となる。 1877(明治
10)年英語を教えていた旧藩主の養嗣子亀井慈明に随行してイギリスに留学、
ロンドン大学に入学、ジェボンズについて経済学を学んでいた。留学中の山辺
に白羽の矢を立てた渋沢栄一から「イギリスで紡績技術を学び、構想中の紡績
会社に協力されたい」との手紙が舞い込む。
幕末の開港以後、安価で均斉な外国綿製品が大量輸入され、国内綿業は大打
撃を受けた。(さほど打撃を受けなかったという説もある) 明治政府は輸入を
防ぐため、イギリスから紡績機械を輸入し、愛知と広島に官営紡績所を設置し
たほか、全国10か所に安価に払い下げ、2000錘紡績を目指した。 しかし、
これは経営的には成功しなかった。 渋沢栄一が重視したのは、(1)大規模、
(2)技術の指導、事業の運営にあたる人材だった。 渋沢は山辺に1500円の
研究資金を送った。 山辺はブラックバーン市のブラッグズ工場に実習生(職
工)として入った。 綿花の買い入れから、紡績の生産全工程、販売方法、包
装など一切を学び、帰国に際しては、イギリスの会社(プラット社)から紡績
機械、蒸気機関などを購入、1880(明治13)年7月に帰国した。
山辺丈夫・大阪紡績の成功<小人閑居日記 2006.6.30.>
山辺丈夫は帰国後、紡績工場の建設に着手する。 渋沢側の計画に、大阪の
藤田伝三郎や松本重太郎を中心にした大阪商人(旧、綿業関係商人を含む)の
紡績会社起業計画が合体し、東京資本と大阪資本を合わせた28万円の大阪紡
績会社構想に発展する。 山辺丈夫が工務支配人として、技術面・生産面での
実質経営者となって1883年7月に操業を開始した大阪紡績は、当初から大き
な利益を生み出し、大成功した。 成功の要因は、(1)大規模生産のメリット。
(2)労働者の二交代制。(3)港に近く立地し、国産綿花から中国綿、インド
綿へ切り替えた。(4)製品戦略は、在来綿織物の原糸となる太糸(着物に使う)
に集中し、イギリス、インドの細糸との競争を回避した。(5)大阪の立地条件。
綿業の生産、流通の本場で、商人の蓄積があった。(6)運転資金は、渋沢の第
一国立銀行、松本重太郎の第百三十国立銀行のバックで、潤沢だった。
山辺丈夫ならではの新機軸。 山辺はイギリスの紡績技術書の翻訳をして、
部下の技師用のマニュアルをつくった。 3階建てないし4階建ての工場、現
場重視、現場の職工を大切にして、部下技術者を自前で育成した。 兼営織布
業への進出。 イギリスのミュール紡織機から、不熟練工でも扱うことのでき
るアメリカのリング紡織機への切り替え。 遠隔地募集と寄宿舎。 寄宿舎で
の福利厚生。 中国、朝鮮への輸出。 合併で、東洋紡績へ(1914(大正3)
年)と発展する。
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