福沢索引2006年5月のブログ・W・K・バルトン生誕150年[昔、書いた福沢233]2020/03/12 06:54

「日本の公衆衛生の父」バルトン記念の会<小人閑居日記 2006.5.15. >
13日、目黒の東京都庭園美術館の新館ホールで「W・K・バルトン生誕150
年記念講演会」。 W・K・バルトンは、日本女性荒川満津(まつ)との間に娘・
多満子を授かり、東京の英国領事館で正式の結婚式を挙げた(当時、日本女性
との関係を正式なものとするのは少数派だったそうだ…加藤詔士名古屋大学大
学院教授の講演による)。 会場には多満子さんの子孫、バルトンからは曾孫に
あたる鳥海幸子さんやメッツ・陽子さん、玄孫にあたるケビン・政弥・メッツ
さんがおられた。

バルトンとバートン、息子の帰郷<小人閑居日記 2006.5.16.>
 稲場紀久雄大阪経済大学教授は昨年、150日にわたってバルトンの故郷エジ
ンバラを中心にスコットランド、そしてロンドンで調査。 福沢の『西洋事情』
外編は、バルトンの父ジョン・ヒル・バートンの『政治経済学』の翻訳が主体
になっている。 バルトンが幼・少年時代を過ごしたエジンバラに9月、本国
ではその業績が知られていないW・K・バルトンの記念碑を建てる予定。

現地で悟ったバルトン来日の理由<小人閑居日記 2006.5.17.>
 稲場紀久雄教授は、バルトンを日本に導いた直接の要因は、育った環境と、
青年達の海外雄飛の願望に火を点した父の著書『ザ・スコッツ・アブロード(海
外のスコットランド人)』ではなかったか、と。 明治維新の若き志士達を支援
したトマス・グラヴァーや日本の灯台の父と仰がれるリチャード・ブラントン
は、父の故郷アバディーン及びその近郊の人である。

W・K・バルトンの学歴と職歴<小人閑居日記 2006.5.18.>
 来日前のW・K・バルトンの学歴と職歴を、藤田賢二東大名誉教授の基調講
演「わが国衛生工学の始祖バルトン」と、稲場紀久雄教授の講演から。 産業
革命には、光と影の両面があった。 機械工学は光のあたる分野だったが、社
会的に切望されていたのは衛生工学だった。 衛生工学に進んだバルトンの生
涯には、父ジョン・ヒルの強い影響。 土木技術者の叔父(母の末弟)コスモ・
イネスと共同で会社と衛生保護協会を設立、環境衛生に関するあらゆる技術的
相談に乗る。

バルトンが日本写真史に果たした役割<小人閑居日記 2006.5.19.>
 写真史家で東京都写真美術館専門調査員、金子隆一さんの講演「W・K・バ
ルトンが日本写真史に果たした役割」。 バルトンが滞日した明治20年代は、
それまでのコロディオン湿板法から、ゼラチン乾板法への転換が確立していく
時期。 秒単位の短時間での撮影、速いシャッターでの撮影も可能になり、写
真印刷が社会的に確立した時期でもあった。

アマチュア、そして総合人間学<小人閑居日記 2006.5.20.>
 バルトンは写真家としては、アマチュアだったから、自由に、何でも撮って
よいという立場であり、それを生かした。 ピクトリアリズム(絵画主義)の
芸術写真、都市の風景のスナップショット、愛岐地震の写真集などでも人物や
生活感を取り込んでいる。

日本の土木工学とスコットランド<小人閑居日記 2006.5.25.>
 西川俊作先生に最近のW・K・バルトンとスコットランド関係の進展を手短
にご報告。 先生は、日本ではスコットランドとイングランドを一緒に考える
けれど、ぜんぜん別で、日本の土木工学はスコットランドと関係が深いこと、
工部大学校のヘンリー・ダイヤーや、橋や灯台のブラントンもスコットランド
人だといわれた。 岩倉使節団がエジンバラを訪れた時、伊藤博文がグラスゴ
ーまで足を伸ばして、お雇い外国人を探した。 工部大学校をつくったダイヤ
ーには、幕末ロンドン密航“長州ファイブ”の山尾庸三(工部卿)が協力。