落合博満監督の采配 ― 2008/05/11 08:16
落合監督がベンチの定位置で腕をくみ、喜怒哀楽を顔に出さない無表情、覚 めた目でじっと戦況を眺めている姿を、ねじめ正一さんは「もはや芸の域に達 した」とみる。 時々、飴を舐めている。 投手交代の際、自らマウンドに足 を運んで、交代するピッチャーに一声かけて、ボールを受け取る。 その表情 はとても柔和で、憤りのようなものはまったく出さない。 指名したオレが悪 い、責任はオレが取る、と体全体で言っているかのようだ。
一昨日の巨人・中日戦、4対7の9回裏、二死二・三塁(?)のチャンスに 原監督はスタメンから外していた阿部慎之助を代打に送った。 一発出れば同 点だ。 落合監督は迷わず、岩瀬仁紀に敬遠を命じる、手堅い采配を見せた。 巨人には、鈴木尚と村田しか代打が残っていなかった。 危険を察知して、早 めに手を打つ、冷静な判断をときどき見ている。
昨年の対日本ハムの日本シリーズ、完全試合一歩手前の山井大介を引っ込め て、抑えの切り札・岩瀬を出した落合采配は論議を呼んだ。 あとで指のマメ が潰れていたというコメントも出たようだが、真相は不明だ(日頃、中日は選 手の故障についてコメントしない)。 『落合博満 変人の研究』でも、いくつ かの意見がある。 江夏豊さんは「代えて当然」、赤瀬川原平さんは「言葉にで きないような根拠があった」、豊田泰光さんは「あの時、負けて困るのは落合だ け」。 それはともかく、落合博満監督は2008年のキーワードは「非情」だと 宣言している、のだそうだ。
連敗の「若葉」「祭」の句会 ― 2008/05/12 07:09
8日は「夏潮」渋谷句会だった。 兼題は「若葉」と「祭」、次の七句を出句 したが、二か月続いて「失敗の記録」になったのは、誠に遺憾というほかない。
三里塚御料牧場樟若葉
若葉して唐招提寺屹立す
若葉風日光月光拝む列
若葉風ジャスミンの香のいずくから
黒髪をきりりと束ね祭かな
祭の子幼馴染の顔をして
地下鉄の出口詰まりし祭かな
結果は、先月と同じく、辛うじて「スコンク」を逃れる二票。 〈若葉して 唐招提寺屹立す〉をひろしさんが、〈地下鉄の出口詰まりし祭かな〉を英主宰が 選んでくれた。 選評で、浅草あたりだろう、心はわくわくして、すでに祭町 にある、と。 主宰には〈改札を出たところから祭町〉の出句があって、それ で採ってくださったのだろう。
反省は、散文と韻文の違いをきちんと意識しなければならない、というとこ ろにある。 毎日毎日、ブログに駄文を綴っているから、どうしても「達意」 の、わかりやすい説明的な文章を書く心がけが、身についている。 俳句では、 説明になることを極端に嫌う。 俳句を詠むとき、「散文的」頭をいかに「俳句 的」な頭に切り換えるか、それが問題だ。
今回、私も選句した秋さんの〈ちちははの忌の共にこの若葉ごろ〉を、主宰 は選ぶにあたって〈ちちの忌もははの忌もこの若葉ごろ〉と添削された。 「共 に」が説明的、韻文はできるだけ生の形、そのままがよいというお話だった。
「若葉」と「祭」の選句 ― 2008/05/13 06:29
「若葉」と「祭」の句会で、私が選句したのは次の七句だった。
光る海光る若葉やバスの旅 さえ
二階より声かけらるゝ柿若葉 なな
湧水の砂の微動や若葉光 なな
むくむくと港を囲む若葉かな 良
ちちははの忌の共にこの若葉ごろ 秋
大幟立つや佃の本祭 なな
ご隠居の打ち揃ひたる祭かな 美保
投句にくらべて選句の方は成績がいいというか、大方の評判とよく合致して、 特に上からの四句などはそれぞれ人気があって、沢山票が入っていた。 英主 宰の選評でも、〈光る海〉楽しい気分がよく出ている、〈二階より〉面白い、不 思議な句、情景が浮ぶ、〈むくむくと〉ちょっと特殊な港の景、波浮の港、土肥、 戸田(へた)、気仙沼あたりを思い浮かべた、〈大幟〉いかにも摂州佃村由来の佃 島の住吉神社の本祭らしい景、とあった。
「小泉信三展」の若き実動部隊 ― 2008/05/14 06:40
10日は、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で、三田の図書館旧館大会議室で開 かれている「生誕120年記念 小泉信三展」を見てきた(~5/21(水)時間: 月~金 10:00~19:00、土・日 10:00~18:00)。
http://www.keio.ac.jp/information/080324.html
まず、この展覧会の実行委員会の実動部隊の中心、山内慶太看護医療学部教 授の話を聞く。 山内さんは、なんと小泉信三さんが亡くなった昭和41(1966) 年のお生れだそうで、あとお二人の実動部隊、神吉創二幼稚舎教諭と都倉武之 福澤研究センター専任講師は、さらにお若いという。 あとで見た展覧会で、 展示されている写真も、本や印刷物も、全体にセピア色になっていた。 それ もなるほどと思われるのであった。
山内さんの講演は、福澤諭吉協会の土曜セミナーで「福沢諭吉の見たロンド ンの医療」(2002.4.20.)を聴き、感心したのを憶えていたが、今回も見事なお 話だった。 実は、その土曜セミナーを聴いて、やはり感心されたのだろう、 小泉妙さんが山内さんに講演の記念にと小泉信三さん所蔵の福沢先生の本を一 冊贈られたのだという。 それがきっかけになって、小泉家に残された資料や 遺品の慶應義塾への寄贈、小泉妙さんに対する26回に及ぶインタビュー、そ して慶應義塾創立150周年と生誕120年に合わせての今回の展覧会開催へと、 つながったのだそうだ。 そのインタビューはこのたび、『父 小泉信三を語る』 (慶應義塾大学出版会)という本にまとめられた。
小泉信三さん、お人柄の形成 ― 2008/05/15 07:13
山内慶太さんは、展覧会の構成(見所)を中心に、忘れ得ぬ人々や三田の小 泉関係史蹟にもふれた話をした。 「小泉信三展」では(一)慶應義塾の歩み とともに、(二)多面的活動…経済学・スポーツ・福沢研究など、(三)楽しめ る展示…ご自身のユーモアや遊び心から、という三つの柱を立てた。 それを 七つのブロックに分けた。 (1)父の影像―生い立ち―(2)よく学びよく遊 ぶ―塾生時代―(3)常に学生と共に在る―教授時代―(4)善を行うに勇なれ ―塾長時代―(5)勇気ある自由人―戦後―(6)愛の人―良き家族―(7)終 焉と継承。
小泉信三さんのお人柄を考えるとき、父の影像とスポーツの精神の二つが大 きく影響している、象徴的には「愛」という言葉でまとめられる、と山内さん は言う。 幼くして父を亡くしたことは、幼年期に庇護を受けた福沢先生自身 の経験とも重なり、父を理想化し、「お護り」ともした。 テニス一筋の選手と して闘争心や負けん気をつちかって、大学部に進む二十の頃から「運動家が勉 強家に」なっていく。
ヨーロッパ留学後の教授時代、論壇の寵児となり、「庭球王国慶應」の部長や ゼミナールの指導教授として、常に学生とともにいることが好きだった。 塾 長になるのを逡巡した時、思い起したのは、運動選手と暮した十年のことで、 数十人の運動部と一万人以上の大学校とは比較できないが、常に青年とともに いて、その一人一人の個性を尊敬し、その成長を悦び、その人々のよき先輩た ることを期する一事は同じではないか、と自分に言いきかせた、のだそうだ。
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