再び「福澤諭吉展」へ2009/02/09 08:22

 7日の土曜日、東京国立博物館の「未来をひらく 福澤諭吉展」を再訪した。  記念講演会が平成館講堂であったので、聴きに行ったのだ。 先に田原町まで 行き、入山せんべいを買って、上野へ。 東京文化会館二階の精養軒レストラ ンで、ビーフ・カレーを注文したところに、松崎欣一先生が入って来られた。  同席して食事、表慶館の展覧会に入るところまでご一緒したので、いろいろと 質問し、貴重なお話を伺うことが出来た。  

先日「等々力短信」第995号に書いた松永安左エ門さんのコレクションだが、 東京と京都の国立博物館と福岡市美術館に寄贈される前に、実は慶應義塾に寄 付の申し出があったのに、慶應が断わったのだという(この話は、後の講演会 で前奈良国立博物館長の鷲塚泰光さんも言及した)。 表慶館前の阿吽の「緑の ライオン」は、展覧会の入口左に展示してある福澤諭吉座像(ふだんは志木高 校にある)と同じ作者、大熊氏広、日本におけるブロンズ彫刻の先駆者の作品 だということも、教えていただいた。

 先日も気になっていたのだが、入口で注意しているように、表慶館にはトイ レがない。 明治33(1900)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に計 画され、明治42(1909)年に開館した表慶館、設計はコンドルの弟子で、東 宮御所(今の迎賓館)も手がけた片山東熊だという。 その迎賓館が模したヴ ェルサイユ宮殿に、トイレが一つもなかったというのはよく知られている。 当 時のヨーロッパの宮殿は、どこも事情は同じで、用をたすときには、庭に出た のだそうだ。 表慶館も、当初からトイレがなかったのだろうか。

 短信を読んだスポーツ用品会社会長に、水原茂のユニフォームは高島屋製だ と教えて頂いた。 今回、襟のラベルをよく見てみたら、“TAKASHIMAYA KYOBASHI&MITA TOKYO”とあった。 日本橋ではない、京橋も三田も、 新たな疑問となった。