可哀そうな赤松小三郎をご存知?2018/09/10 07:13

 大河ドラマ『西郷どん』をご覧かどうかわからないが、「人斬り半次郎」中村 半次郎を演じているのが、朝ドラの『わろてんか』でキース(横山エンタツら しい)をやっていた大野拓朗だ。 このところ、上田藩士の赤松小三郎に興味 がある。 赤松小三郎は、慶應3年9月3日、京都東洞院通りで無残にも斬り 殺された。 暗殺者は、中村半次郎(後年の桐野利秋)だった。 赤松小三郎 は、信州上田藩の兵学者だが、薩摩藩の兵学教授も務めていたので、弟子の中 村半次郎に殺されたことになり、そこには複雑な事情があった。

 私が赤松小三郎のことを知ったのは、「『西洋事情』の衝撃」で紹介した平 山洋さんの『「福沢諭吉」とは誰か』(ミネルヴァ書房)によってだった。

 <等々力短信 第1101号 2017.11.25.>「『西洋事情』の衝撃」

http://kbaba.asablo.jp/blog/2017/11/25/8734068

 に書いたように、平山さんが、福沢諭吉の『西洋事情』が維新前後の思想界 に甚大な影響を与えたことを指摘した中に、こう例証していたからだ。 慶應 3年(1867)5月の赤松小三郎(信州上田藩兵学者、薩摩藩兵学教授)「口上書」 から山本覚馬「管見」まで、大政奉還を挟んでの約1年間に書かれた新体制に 向けての提言や、坂本龍馬の「新政府綱領八策」、明治新政府から出された由利 公正ら立案の「五箇条の誓文」や福岡孝悌ら起草の「政体書」といった重要文 書が、ことごとく福沢諭吉の著作、とりわけ『西洋事情』初編の強い影響を受 けていた。

 平山洋さんによれば、その赤松小三郎は、慶應3年(1867)5月に「口上書」 を松平春嶽に提出後、薩摩藩の武力討幕路線に反対して、薩摩の西郷隆盛や小 松帯刀と幕府の永井尚志らを仲介し、内戦の勃発を必死に回避しようとしたが、 その試みも8月には挫折し、9月に本藩の上田藩に呼び戻されることになる。  薩摩藩にとって、赤松が指導した英国式練兵術は絶対の秘密だった。 幕府側 にそれを知られては手の内をすべて読まれてしまう。 安政6(1859)年に急 死した先代上田藩主松平忠固は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約 (1858年)締結時の幕府老中である。 つまりは、赤松が戻ろうとする先は幕 府中央というべき場所ということで、薩摩藩としてはどうしても赤松の帰藩を 阻止しなければならなくなった。 そうして、可哀そうなことに赤松小三郎は 暗殺されてしまった。 享年36歳。

 もし赤松小三郎が生きていれば、明治の新しい体制をつくるのに、その「口 上書」にある現行憲法につながるような、憲法、法の下の平等、個性の尊重、 議会、参政権などの主張が、反映されていたかもしれないのである。

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