やさしくかくということ[昔、書いた福沢186]2019/12/30 06:21

       再録:やさしくかくということ<小人閑居日記 2003.8.26.>

 <等々力短信 第930号 2003.8.25.>に書いた「漢字仮名交じり文の運命」 だが、そのテーマで<小人閑居日記>に書いていたことを、思い出した。 毎 日書き飛ばしていると、ぜんぶ憶えているわけにはいかなくなる。 それは昨 年12月7日の「やさしくかくということ」で、加藤秀俊さんの中公新書『暮 らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』を読んで書いた何回かの一回だ った。 この問題もまさに「かわるもの、かわらないもの」なので、まず、そ の12月7日の日記を再録する。

        やさしくかくということ<小人閑居日記 2002.12.7.>

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日 本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字 之教』の末は漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬 字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、 鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、 改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべ きだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」する ための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 な にしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な 問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかっ た。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、とい うのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の 数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、 ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想とした さらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速した のが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「か く」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さ んの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫 さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞 を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこ まで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。  それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手で は「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、 単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいた のに、はずかしい。 深く反省したのであった。

      加藤秀俊さんの日本語自由化論<小人閑居日記 2003.8.27.>

 近所の図書館で、井上ひさしさんの『ニホン語日記』(文藝春秋)のすぐそば に、加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』 (TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)があった。  『日本語の開国』のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」 をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五 百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千 万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少 数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」 をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日 本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日 本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完 全さ」の「程度」のちがいにすぎない。  (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文 学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明 確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。  (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字 の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よ みやすく、そしてかきやすいものになる。  (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。  「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

     加藤秀俊、梅棹忠夫、そして司馬遼太郎<小人閑居日記 2003.8.29.>

 若いとき、加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受け た。 一つには、その文章が読みやすかったということがあった。 それが『日 本語の開国』にあるような、日本語の自由化や国際化につながるものであると いうことまでは、気がつかなかった。

 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく) 原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音 読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあか るい感じになる。

 いただいたばかりの木村聖哉、麻生芳伸往復書簡『冷蔵庫 7』(紅ファクト リー)の麻生さんの手紙に、岡本博さんという方のことを書いたのがあって、 なかに司馬遼太郎さんが岡本さんの本『映像ジャーナリズム』に寄せた序文が 引用されている。 司馬遼太郎さんも、読みやすい文章を書いた。 短文なが ら、岡本博さんという人のことがよくわかり、「雨ニモマケズ」ではないが、そ ういう者になりたいように描かれている。

 「岡本博は、経歴をみるとおそろしいばかりにオトナくさい元肩書がならん でいるが、自分自身を少年の心のままにとどめることにこれほど努力してきた 人はまれだし、そのことにみごとに成功した人である。  かれの感受性と洞察力は、澄みとおってしかも多量な少年のそれそのもので あり、自分の「見てしまったもの」をばらしたり組みあわせたり、あるいはも う一度のぞきこんだりする能力は、いうまでもなくかれのすぐれた知性と教養 である。  岡本博は、群れて歩いている人ではない。独りで歩き、独りで観客席にすわ り、ひとりでデモに加わり、ひとりで公園の水を飲んでいる。ひとりが似合う、 あるいはひとりが風景をなしているという人は、私の友人のなかでもきわめて すくない。                          司馬遼太郎 」

     「漢字をつかわない日本語」の方向<小人閑居日記 2003.8.30.>

 井上ひさしさんの漢字仮名交じり文についての考えと、加藤秀俊さんの日本 語自由化論をならべてみて、あらためてつくづく、ひとつの問題にもいろいろ な見方があることを感じた。 私などは、加藤論にひかれながら、井上論も捨 てがたく、「ゆれ」ているというのが実情である。

 『日本語の開国』の野元菊雄元国立国語研究所長の「日本語改革の思想史」 には、戦争の時代、生産力や軍事力を上げるために、用語の簡素化と発音式仮 名遣が推進されたこと、井上ひさしさんの本にあったように満州事変で新聞紙 面に中国の地名人名が多く出て漢字制限が無意味になった後も、漢字制限の底 流は依然として流れていたことが書かれている。 戦後割に早く、新かな・当 用漢字という今の表記法などが確立したのは、それなりの準備があったからで、 その中心になったのは保科孝一(1872-1955)という人物だったという。

 野村雅昭早稲田大学文学部教授(前に短信676号で『落語の言語学』をと りあげた)は『日本語の開国』の「漢字をつかわない日本語」で、漢字制限と 言文一致という語彙の改良をおしすすめ、正書法が可能なハナシコトバにもと づく語彙体系を確立する必要を説いている。 日本語をかえなければならない のは、わたしたちが近代国家としての言語を自分のものにし、それを世界中の 人々に解放するためである。 いうならば、真の精神の自由を獲得することに ほかならない。 言論の自由の保証は、ハナシコトバにもとづくものでなけれ ばならない。 できることからはじめる必要がある。 できるだけ漢字をつか わないようにという加藤秀俊、梅棹忠夫両氏のこころみなどは、その準備であ る。 漢字をつかわない日本語の時代は、まちがいなくおとずれる、と野村教 授は断言している。

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