トーマス・グラバーと明治維新[昔、書いた福沢173]2019/12/17 07:02

      トーマス・グラバーと明治維新<小人閑居日記 2003.5.3.>

 きのう五代才助が長崎に潜入してから、トーマス・グラバーと知り合ったと 書いたが、杉山伸也さんの『明治維新とイギリス商人―トマス・グラバーの生 涯―』(岩波新書)を見たら、薩英戦争直前に長崎でイギリス海軍軍医レニーと グラバーが薩摩藩の五代ともう一人の高官を訪問し、イギリス艦隊来襲の際の 衝突の回避と賠償金の支払方法について会談している事実があった。 五代と グラバーは戦前から顔見知りだった。

 1865年7月、オールコックの後任として、ハリー・パークスが駐日イギ リス公使として着任する。 対日貿易の発展を期待するイギリスにとって、外 国貿易の利益を独占しようとする幕府の方針は、必ずしも受け入れられるもの ではなく、幕府の外国貿易独占に反対する西南雄藩と共通の利害関係を持って いた。 1866年2月に鹿児島を訪れたグラバーの仲介で、7月、パークス の鹿児島訪問が実現する。 その前月、イギリスの対日政策は、幕府に対する 政治的な支持から、通商の発展だけを求め、政治的には厳正な中立政策をとる 方針に転換していた。  1908(明治41)年7月、グラバーは外国人としては異例の勲二等旭日 章を受けた。 伊藤博文、井上馨連名の叙勲申請書草案には、「グラバが薩長二 藩のために尽したる所は、即ち王政復古の大事業に向って貢献したるものなり」 「彼が英公使パークスに対して薩長二藩と親善を開かんと勧説した」「此大勢に 乗じて事を成すの権力は西南の大名にあり、……英国はよろしく薩長二藩に結 びてその事業を幇助すべし云々と。これグラバ従来の自信なり。彼素より営利 の商人なれども、その自信の方針を貫徹せんとせば、勢い営利の範囲を脱して 誠意と熱心とを以て事に当らざるを得ず」とあるという。

       グラバーの栄光と挫折<小人閑居日記 2003.5.4.>

 幕末の緊張で、艦船や武器類の輸入が急増し、ブームを迎えた長崎貿易も、 1868年の後半になると急激に縮小に向った。 グラバー商会の経営も、そ れを反映し、さらには諸藩に対する長期信用貸しの増加と支払いの遅滞などに よって、悪化して行く。 グラバーは、1866年頃から薩摩藩と共同で、長 崎の小菅でスリップ・ドック(修理船をレールに乗せて捲上機で海から引き上 げる)を建設したり、1868年2月佐賀藩が計画した高島炭鉱の開発にかか わったり、艦船や武器など投機性の強いビジネスから、安定した経営基盤をも とめ、貿易商から企業家への転身を計ろうとした。

 だが、商会規模の急速な拡大と、明治新政府の成立による中央集権化という 経営環境の急激な変化は、グラバーの予想をはるかにこえていた。 従来ジャ ーディン・マセソン商会やオランダ貿易商会からの調達していた資金の大部分 は固定化して、運転資金の資金繰りを困難にし、1870年8月グラバー商会 は倒産にいたる。 杉山伸也さんは、薩英の融和、西南諸藩への艦船・武器の 調達、そして小菅スリップ・ドックの建設や高島炭鉱の開発について、日本の 近代化と発展を願い、冒険的で企業心に富んだグラバーの存在が、それを加速 させたことは疑いがないといい、グラバーが情熱をかたむけた政治的変革が実 現されるにつれて、しだいに政局に翻弄され、その活躍の場を逆にせばめられ ていった、グラバーの胸の内に去来した挫折感に思いをはせている。

    外交で活躍した松木弘安(寺島宗則)<小人閑居日記 2003.5.5.>

 五代才助と松木弘安に率いられてイギリスに渡った薩摩藩英国留学生一行は、 グラバーの紹介で、その時はイギリスの下院議員になっていた大の親日家(4 年前の東禅寺イギリス公使館襲撃事件で斬られて負傷したにもかかわらず)オ リファントに会い、多大な世話と恩恵を受ける。 松木弘安は、オリファント の紹介で、パーマストン内閣の外務次官のレイアード、その後のラッセル卿(バ ートランド・ラッセルの祖父)の内閣の外相クラレンドンに会って、条約批准 権を幕府から天皇の召集する有力諸侯会議の代表者に移すことに、英国政府の 積極的な関与を求める工作をする。 パークスの鹿児島訪問の前月に発せられ た、通商の発展だけを求め、政治的には厳正な中立政策をとるというイギリス の対日政策の転換には、この松木の外交工作の効果が認められるという。

 明治元年、松木弘安(寺島宗則)は新政府の参与兼外国事務掛に任じられ、 創業期の外国事務の第一線にあった。 2年、外務省設置とともに外務大輔。  5年、大弁務使として英国に駐箚。 翌6年帰朝し、征韓論の政変後、参議兼 外務卿となり、12年に文部卿に転じるまで、英・独・仏語を能くし経済学に も通じた外交官として、明治初年の外交を主導する。 つくづく薩英戦争の際 に死ななくてよかった。 幕府の遣欧使節団に同行した友人福沢諭吉は、欧行 の船中箕作秋坪と三人で「親玉(将軍)のお師匠番になって、思うように文明 開化の説を吹き込んで、大変革をさしてみたい」などと日本の時勢論を吹き合 ったが、「その松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とかいう実際の国事に 当ったのは、実は本人の柄において商売違いであったと思います」と『福翁自 伝』に書いている。 若い時の友達は、そんな印象を持つものだろう。

       洋銀と金銀貨の交換比率<小人閑居日記 2003.5.6.>

 女王宛の十分に誠意のこめられた謝罪書と賠償金10万ポンドの支払を要求 して、それを実行しない折には24時間以内に艦隊の武力行使を行なうと迫る イギリス(ラッセル外相の指令書の写しも示し、これは福沢や箕作秋坪、高畠 五郎、大築保太郎、村上英俊らが訳した)に、幕府は老中格小笠原長行(なが みち)の独断という形(外交に練達した水野癡雲の説得もあり)で洋銀(メキ シコドル)44万ドルを支払う。 その量は多く、大八車23台分だったとい う。 当時のドルがアメリカドルでなくメキシコドルだったこと、あまりに大 量で重くイギリス軍艦は大砲を捨てて(下ろして?)積まねばならなかったこ とは、石川潔さんに聴いて、はじめて知った。

 岩波文庫の『ワーグマン日本素描集』に、横浜の運上所(税関)だと思われ るところに両替に殺到し行列している外国人たちの絵がある。 その説明が分 かりやすいので、引いておく。 見出しは「一分銀3個で1ドル」。

 1859(安政6)年7月、幕府は1ドル(洋銀)と一分銀3個(銀三分) を取り替えることをアメリカ、イギリス側に通告した。 当時、外国での金銀 貨の対価が1対15だったのに、日本は1対6から10、すなわち金貨が外国 に比べて安かった。 これに目をつけた外国人たちは洋銀をまず一分銀に換え、 これを小判に換える。 小判をそのまま外国に持ち出して銀貨と換えれば、2 倍半から最低5割のもうけになる。 こうして小判が買い漁られ、海外に流出 する事態となった。

       生麦事件、島津久光陰謀説<小人閑居日記 2003.5.8.>

 生麦事件で、一つ書くのを忘れていた。 宮澤眞一さんの『「幕末」に殺され た男-生麦事件のリチャードソン』(新潮選書)にある「生麦事件、島津久光陰 謀説」だ。 文久2年3月26日に鹿児島を出発した時から、幕府は久光の振 舞いを快く思っていなかった。 行列とは名ばかりで、内実は挙兵である。 千 名の兵を率い、大砲を隠して運び、大坂までの兵員輸送には前年購入したイン グランド号を使った。 まず京都で朝廷内部の人事一新に成功すると、親幕派 の九条尚忠を失脚させた。 さらに幕府の人事一新を計ろうと、勅使大原重徳 をかついで、勅使護衛を口実に江戸に上り、ごり押しして幕府に徳川慶喜を将 軍後見職に任命することを承知させての帰途、生麦事件が起きる。

 事件の一週間前に、薩摩藩に蒸気帆船ファイアリ・クロス号(永平丸)を売 る商談で久光に会い、受渡しをしたホワイト船長は、のちにラッセル外務大臣 と「タイムズ」紙に送った報告で、つぎのように書いているという。 同船の 売買に幕府が介入し、幕府のメキシコドルを薩摩藩に高く買わせたり、その船 で鹿児島へ帰ることを禁止した悶着にふれ、久光の怒りはとうてい鎮めようが なく、幕府を外国とのトラブルに巻き込んでやれと、道中で出会う外国人を誰 彼かまわず斬り捨てるように命じていた、というのである。

 この本には、薩摩藩が薩英戦争前にグラバー商会にアームストロング砲百門 を発注していたことも出てくる。 ロンドンで連絡を受けたグラバー商会のパ ートナー、グルームは「死の商人」ながら、その処理に悩んで、政府関係の親 戚筋に、この一件を打ち明け、情報はラツセル外相に届いて、買い付けを禁ず る指示が出ていた。