堀達之助とリュードルフ事件[昔、書いた福沢177]2019/12/21 06:56

      堀達之助とリュードルフ事件<小人閑居日記 2003.5.28.>

 ちょっと調べたいことがあって、『福沢手帖』のバックナンバー(福沢諭吉協 会機関誌、昭和48(1973)年12月創刊、季刊で、今年3月116号が 出ている)をひっくり返していたら、面白い論考に出合った。 ペリーの初来 航時、中島三郎助と一緒にサスケハナ号へ行った通詞「堀達之助」に関するも のだ。 堀孝彦名古屋学院大学教授の「堀達之助とリュードルフ事件-福沢諭 吉の視座-」(平成10年9月『福沢手帖』98)だ。

 『福翁自伝』に、神奈川奉行組頭だった脇屋卯三郎が、容易ならぬ時節柄「明 君賢相が出て来て何とか始末」と親類に書いた手紙を、探偵に盗まれ、切腹さ せられたのを知り、恐くなった福沢が、翻訳方で知り得た外交情報を私的に書 き写して自宅に持っていたのを早々に焼いて処分した話がある。 堀孝彦教授 によれば、『福翁百話』六十二「國は唯前進す可きのみ」には、脇屋卯三郎の話 が、それ以前の堀達之助のリュードルフ事件の例とともに述べられているとい う。

 『福翁百話』に書かれていることには誤りもあるが、リュードルフ事件とい うのは、次のようなものだという。 安政2(1855)年5月21日、ドイ ツのプロイセン商人リュードルフがアメリカ(船と称し)のグレタ号に乗って 米国国旗を掲げて下田に来航した。 グレタ号は、安政元年11月の地震と津 波で沈没したロシア軍艦ディアナ号のロシア人(の一部だろう…馬場)を乗せ て出港したので、リュードルフは積み荷を陸に揚げ、下田に滞在して、商売を し、密輸もしたらしい。 堀達之助は、当時通詞として下田に在勤していて、 交渉にあたるうちに、次第にリュードルフと親しくなる。 リュードルフは、 実は自分はドイツ人で、イギリスやアメリカに認められた特権をドイツにも与 えるよう(日独修好問題)、幕府に進言してもらいたいと、堀達之助に働きかけ る。 堀は一存で、一私人の国交要求書など上にとりつぐまでもなく相手にで きないと断わったが、その要求書が見事な筆跡だったので手本にでもしようと 持ち帰る。 リュードルフの書いた本には、堀に時計や望遠鏡を渡して、日本 の硬貨、刀、地図(?、事実ならシーボルト事件の再現)を手に入れたとある そうだ。 堀達之助は、公文を私したとして捕えられ、安政2(1855)年 9月、五年の刑で伝馬町の獄舎に入れられる。 牢名主となって、かつてアメ リカ密航を企てた時下田で世話したことがある吉田松陰が入牢してきたのとも、 密度の高い交流をする。 安政6(1859)年10月27日吉田松陰は処刑 され、一方堀達之助は蕃書調所頭取古賀謹一郎の周旋で、その2日後出牢し、 『英和対訳袖珍辞書』編纂に専念していく。