白酒の「船徳」2016/07/06 06:39

 ちょうど朝日新聞夕刊で、桃月庵白酒、目指すは「ふわふわ飛んでいってし まう落語」というのを読んで来た。 白い着物に黒い羽織。 黒の羽織が三人 続いたが、きちんとしていて、気合も感じる。 寄席が平日の昼間でも満席に なる。 ご年配の方ばかりではない。 何をやっている人だろう。 異業種の 人と話す機会がある。 最近、目障りなのは、俳優とかアイドルが落語をやる こと。 見た目だけで、何とかいく。 こちらは、それが出来ないから、「甲府 ぃー」とか言っている。 どうしようもない。 空き地に囲いが出来たよ。  Hey! みたいに。 馬鹿じゃないかと思う。 いろいろな悩みや考えがあるか もしれないけれど、知らない世界がある。 木久扇さんが、悩んでる。 英国 がEUから離脱するっていうけれど、ヨーロッパやめるんですね。 明日から、 アジアになる。

 若旦那が、パチッと弾けた。 まっ正直に弾けた。 ちょいと、若旦那、銭 湯で驚きましたよ、彫り物なんかして、いずれはお店に帰るんですから。 お 願げえがある、私を船頭に雇ってもらいたい。 およしなさい、凍てつくよう な川にも漕ぎ出さなきゃならない、いろんな時がある。 春夏秋冬、自然と一 体になる人間本来の姿だ、それが女の子にももてる。 断ります。 いいよ、 ほかにも船宿はある。 仕方がないな、いつおやめになってもいいですから。  そのつもりだ。 お竹、みんなを呼んで来い、俺が怒鳴っているって。

 親方が怒鳴っているよ。 聞こえないの、バカ。 何だ? 小言よ。 あれ かな、新造の舳先を欠いた。 みんなってのは、あれかな、隣の家がとった天 ぷらそば二つ食って、あとで出てたお金まで盗った。

 押すな、親方の顔を見ただけで笑っちゃうんだ。 新造の舳先……、いつや った、ちっとも知らなかった。 隣の天ぷらそば……、でもない。 若旦那が 船頭になりたいってんだ。 いいね、江戸中の女、独り占めにするんだ。 泣 くな。 ただ、徳って、呼びつけにしてもらいたいってんだ。 できるよ。 今、 やれ。 明日から。 オゥ、オゥ、オゥ、いきますよ、徳ッ、すみません。

 四万六千日、お暑い盛りでございます。 鉄道馬車に乗ろうよ。 粋な乗り 物じゃない、箱に押し込められて。 舟にしよう。 みんな出払ってまして、 舟はあるけど、漕ぎ手がいない。 いるじゃないか。 大桟橋までやってくれ。  (腕を叩いて、)♪旅行けばーーッ。 乗っちまおう、乗っちまおう。 大丈夫 か。 大丈夫だ。 遅いな。 ちょいと、ヒゲを当っておりまして。

 白酒の「船徳」、ここからは、ほとんど仕種が主になる。 (片手で鉢巻をま こうとして、なかなか出来ない) 両手でやれよ。 エイ、ハッ、ヤッ、ウン (竿に力を入れるが、なかなか出ない。) まだ舫ってあるじゃないか。 出ま した。 アッ、竿、流しちゃった。 艪(ろ)に代わればいいんだ。 あれを かけて(と、懐から書付を出して見る) なんでグルグル回っているんだ。 太 った旦那、胴の間に座って下さい。

 おーーい、徳さん一人かい、大丈夫かい! 何だろう、拝んでるよ。 何で もないです、こないだ、おかみさんを一人、川に落っことしただけで。 石垣 が、迫って来たぞ、離れろ、離れろ。 着いちゃったよ。 お待ちどう様。 出 しなさいよ。 ハッハッハッ…、五月蝿いんだよ、この仕事は大変なんだ。 そ こまで言われたら、出したくない。 謝って。 手を付いて。 悪かったよ。 太った旦那も。 悪かったよ。 コウモリ傘で、石垣を突いて。 竿、流しち ゃったでしょ。 コウモリ傘、福引で当ったやつだ。 はずれちゃったつもり で、やってくんない。 君ならやれるよ。 助けて! セーノーで、大旦那も 頑張って。 コウモリ傘が、石垣に。 もう、戻れない。

 すごい揺れだ。 川蒸気、ポンポン船だ。 汗で、目が見えない。 ぶつか るぞ。 こっちだ、こっち。 すんでの所だったよ。

 まるっきり、揺れない。 船頭、どうした? もう駄目、上がってください。  まだ川の中だ。 底が見えてる、浅いから。 君、おぶさってきて。 船頭じ ゃない。 船頭が、のびちゃったよ。 大丈夫かい。 お願いがあります。 上 がったら、船頭一人、雇って下さい。

鯉昇の「日和違い」2016/07/07 06:20

 瀧川鯉昇も、鼠色の着物に黒の羽織。 長い仲入のつもりで、ゆったり聞い て、と。 最近のことは忘れるけれど、50年前の思い出は鮮明。 東京オリン ピック、浜松の小学6年生、ブルーインパルスが空を飛ぶ。 毎日毎日、飛行 機雲で五輪を描く練習をする。 そのうちに色がつく。 みんな、あれをやり たいと思った。 卒業文集の「将来の夢」に、「ヘンタイになって空を飛びたい」 と書いた。 望みのかなったのが、三人いた。

 非日常なのが、お祭り。 古本屋さんが出ていて、『太閤記』上下、「上巻発 売中」、二冊二十円、紐で固く縛ってあった。 買って帰ると、二冊とも上巻だ った。 いまだに、日吉丸がどう出世したのか、わからない。

 見世物小屋。 「蟹男」。 カラーテレビの段ボール箱を赤く塗って、人相の 悪い男が、そこから手足を出して、横に歩く。 目が合うと、こちらから目を 伏せるような男。 「お粥(かゆ)を食べて、口から石炭を出す男」。 蒲団に 病人が寝ていて、係がお粥を食べさせる。 病人が、痰を吐く。 どちらも、 法には触れないけれど、不適切。 落語は、下手でも、罪にならない。 しか し、客席にいて、笑わないのは、違法。

 易者さんは、客を亡者と言う。 この頃、いいことがないんですが? お宅 に井戸があるか? ない。 あると、病人が出るところだった。 長屋には井 戸があるが? 便利でよかった。 庭に八つ手の木は? ある。 位置が問題、 右側にあると、禍がある。 左に植わっている。 時に、八つ手をどちらから ご覧になる? 外から。 わしも外から見る。

 熊さん、聞きたいことがあるんだ。 天気は、今日、この先どうなるかね。  これから日本橋に行かなければならない。 天気が変わりやすいから、みんな 傘を持って出なって言うんだ。 わかんない。 出商いの人に、聞いたらどう だ。 見あたらないよ。 漁師に聞け。 漁師はどこにいる。 川や海のある 所、品川なんか。 日本橋の先だよ。 卑弥呼が天気を当てたって話だ。 卑 弥呼、まだいるの? 占いをする人だ。 隣に占いの先生がいる。 卑弥呼の 縁戚か?

 こんちは。 おや、ご隣家の方。 天気はどうなってます、これから先? 左 様だな、今日は降る天気ではない。 いくら? お隣のことだ、お代は、いい よ。 では、出かけます。

 白い雲が出てきたぞ、冷たい風が吹いて、雲が広がった。 すごい雨だ、盆 を返したような雨だ。 どぶ板なんかが、流れてきた。 店先で、雨が降るの を喜んでいては困るな、行ってくれ。 傘、借りていいか。 駄目。 じゃあ、 座敷で雨宿りさせて。 濡れないようにすれば、いいんだろう、座って、(米俵 をかぶせて)立って。 頭に、サンダラボッチ。 これはいい、有難う。 お 代、置いてって、米屋ですから。 いくら? 二十円ばかり。 傘が二本買え るよ。 雨が上がったね。 身動きが取れない。 石、投げないで。 棒で突 かないで。 婆さんが、手を合わせてるよ。

 この、いんちき占い。 珍しい恰好で、ハロウィンですか。 面白いお遊び で。 隣町の米屋の大将が、雨宿りしようとしたら、こうしたんだ。 米屋の 大将、元気でしたか、あれ、私の兄で。 金も取られた。 傘を持たずに、お 出かけで。 「今日は降る天気ではない」と、言ったよな。 「今日は降る、 天気ではない」と申しました、傘がなければ濡れるだろう。 米俵の神様が祟 (たた)るってことはないか。 ご懸念なく、「俵の神に祟りなし」と申します。

小満んの「髪結新三(下)」2016/07/08 06:35

 <鎌倉を生(いき)て出(いで)けむ初鰹>、松尾芭蕉の句で。 鎌倉から 八丁艪の舟で魚河岸まで運んだそうで、<ばかものをあてに四五本初鰹>。

 親分というのは、博打の開帳なんかをしているのだが、町内にもめ事がある と役に立つ。 家主は、自身番に町役人として交替で詰めている。 三か町に 一人ぐらい、名字帯刀を許された名主というのがいて、そこへ召し連れ訴えを する。

 日本橋葺屋町河岸の親分、弥太五郎源七が、深川富吉町の格子づくりの長屋 へ。 おい、ごめんよ。 三尺帯だけの新三。 お前にちょいと、話がある。  これには、言うに言えねえ綾がある。 これだけは、強情言わずに、うんと言 え。 親分とかなんとか威張りやがって、十両なんてはした金はいらねえや(と 叩き返す)。 矢でも鉄砲でも持って来いってのか。 親分、すみません、お刀 を抜くのはご勘弁を(と、車屋の善八が止める)。

 六十二、三の痩せた年寄。 葺屋町河岸の親分さん、この家作を差配してい る長兵衛という親爺で。 申し上げたいことがある、手前共のところへわざわ ざ源七親分だ、私がちょいと間に入ってみたい。 あれは無宿者でしてね。 柄 のない肥え柄杓、手の付けようがない。 三十両で、事を収めたいと思います が、善八さん、帰って、旦那にそれと駕籠を一丁寄越すように言ってくれ。

 新三、居るか。 おっ、旦那で。 旨そうなものがあるな、初鰹か。 三分 二朱でござんした。 よくやった、あの親分の鼻ッ柱を折って。 ここは俺に まかせねえか。 あっしのやりかけた仕事だ、三日でも新三の女房にしたんだ。  金で転べ、俺が間に入ってやる、いくら要る。 三百両。 俺は三十両で請け 合った。 三十両…、嫌でござんす、一晩抱き寝はしてますが…。 わっしも 唯の奴(やっこ)じゃない、上総無宿の入れ墨新三だ。 無宿たあ、人別のな いことだ、入れ墨は人交わりが出来ねえってことだ。 出てけ、一日だって置 くんじゃない。 お前の首は、俺の胸三寸だ。 三十両が嫌なら、店空けろ。  おまかせしたい。 鰹の半身もくれ。 骨付きの方がいい、あとで取りに来る。

 白子屋から駕籠と三十両に、長兵衛にお酒お肴代と五両、持ってくる。 お 前も薄情でいけねえ。 鰹、もらって帰えるとするか。 旦那、旦那、まだ三 十両、もらってない。 お盆に手拭、山吹色を並べる。 ヒイ、フウ、ミイ、 ヨウ、イツ…、これでいい。 五両、五両、五両で、十五両。 十五両だ。 片 身もらう約束だったろ、間に入って十五両。 十五両なんて…、いらねえ。 い らねえなら、もらっておくぞ。 俺が間に入っているんだ、召し連れ訴えする ぞ、店空けろ。 ようがす、しかたがねえ。 五両は、店賃のかたにもらって おく。 なんでえ、もとの十両になった。

杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』2016/07/09 06:26

 発端は『福澤手帖』169号(2016年6月・福澤諭吉協会)の川崎勝さん(同 協会理事)の一文だった。 「さまよい歩いてきた馬場辰猪―新発見「馬場辰 猪日記」で見えてきたこと―」である。 馬場辰猪歿後125年にあたる2013 年秋に、1882(明治15)年、1884(17)年、1885(18)年の「馬場辰猪日記」 と、“K’waigo or Repentance:A Story of Feudal Japan”(「悔悟」)が、三菱史 料館の岩崎久弥の遺品の中から発見された。 1988-89年刊行の『馬場辰猪 全集』全4巻(岩波書店)を川崎勝さんと一緒に編纂した杉山伸也さん(慶應 義塾大学名誉教授)は、「馬場辰猪は、いまなお生きて、あなたのすぐ身辺をさ まよい歩いている」という安部公房の言葉を思い出し、川崎さんもまったく同 じ思いだった、という。

 そして杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』(慶應義塾大学出版会・ 2015年)が刊行された。 新発見の「日記」と「悔悟」、日記の記述から馬場 辰猪筆と判明した『朝野新聞』の無署名論説「史論」を中心として、馬場の最 後の投書「日本の内閣(The Japanese Cabinet)」その他の史料に、それぞれ に詳しい解題を付し、全面的に改稿した「年譜」、杉山伸也さんの書き下ろし「馬 場辰猪伝」で構成されている。

 ここで、ざっくり『広辞苑』で「ばば たつい」【馬場辰猪】をみておく。 「政 治家・思想家。高知藩士の子。孤蝶の兄。慶応義塾に学び、イギリスに留学、 法学を修める。自由党員として民権思想の普及に努力。また明治義塾を開く。 投獄されたが、釈放ののち渡米して客死。主著「天賦人権論」。(1850~1888)」 (嘉永3年~明治21年、享年38歳)

 杉山伸也さんの「馬場辰猪伝」から読んでいきたい。 辰猪の短い生涯38 年を、4つの時代に分けている。 (1)1870(明治3)年7月に英国留学する までの国内での修業時代(~20歳)、(2)70年7月から一時帰国の4ヵ月をは さんで78(明治11)年5月までの実質約7年にわたる英国留学の時代(20歳 ~28歳)、(3)帰国から86(明治19)年6月の渡米までの約8年にわたる国 内での自由民権運動の時代(28歳~36歳)、(4)渡米から88(明治21)年11 月にフィラデルフィアで客死するまでの2年4カ月におよぶ米国時代(36歳~ 38歳)。

 (1)馬場辰猪は、66年4月(慶應2年3月)、父來八の異母弟で土佐藩海 軍機関士の叔父氏連の影響で、海軍機関学の修業のために藩留学生として江戸 に遊学し、7月(同5月)築地鉄砲洲の福澤塾(のちの慶應義塾)に入塾した。 英語と地理や物理を学び、合衆国の歴史を読めるまでになった。 江戸の状況 の切迫で土佐に帰ったが、69(明治2)年1月芝新銭座に移転していた福澤塾 に再入学し、約1年間歴史、経済学、倫理学を学び、西洋の科学や文化につい ての基礎的な教養を習得した。

 (2)馬場は、藩命で海軍研究のため英国へ留学する機会を得た。 そして 思想形成の決定的時期を英国ですごし、ヴィクトリア中期の自由主義の思想的 洗礼をダイレクトに受けた。 72(明治5)年8月岩倉使節団の英国訪問を機 に、政府留学生として専攻を法律学に変更する。 この時代の英国で、思想の 中核となる人権の尊重や自由・平等の精神が自然法や自然権論からみていかに 基本的なものであり、かつ「公議輿論」がいかに重要であるかを原体験として 知った。 英国社会科学協会で、体制内改革、言論の自由が国民の福利を増進 することを学ぶ。 こうした政治的、社会的、知的環境のなかで、馬場自身の 法律学をはじめとする内在的な知的探究心と武士としての責任感、この内外の ふたつの要因が密接に結びついて、馬場の思想は形成されていった。

 こうした西洋思想の影響とともに、福澤諭吉の影響が馬場の生涯にわたって 強烈な刻印をおした。 福澤は1874(明治7)年10月、馬場に送った書簡に、 「結局吾輩の目的ハ、我邦之ナシヨナリチを保護するの赤心のミ。……幾重ニ も祈る所ハ、身体を健康ニし、精神を豁如ならしめ、飽まて御勉強之上御帰国、 我ネーションのデスチニーを御担当被成度、万々奉祈候鳴也」と書いた。

啓蒙、自由民権の時代から、渡米決意へ2016/07/10 06:32

 (3)啓蒙の時代―1878~80年。 明治政府の開明性や革新性に対する馬場 の期待は大きかったが、馬場が英国から帰国して三日後には大久保利通が暗殺 され、その後の明治日本の歩みは、馬場の描いた明治像からはしだいに遠ざか っていった。 馬場の活動は、1878(明治11)年5月の帰国以降、80年7月 までの共存同衆(および三田政談会)、それ以降は国友会での講演が中心だった。  共存同衆は、馬場より先に帰国した小野梓が、ロンドンで組織した日本学生会 を基盤に創立した学術啓蒙団体。 馬場の思想の中核は、天賦人権論による「自 由・平等」、「人民」、「公議輿論」の三つに集約できる。 78年9月の「社会論」 は馬場の基本的姿勢が凝縮された、馬場の日本における決意表明だ。 圧制政 府は人為的に偏重している。 それは「平均力」(重要なのは「公議輿論」)が 作用して打破される。 79年5月に公布された政府官吏の民間での政治演説禁 止の太政官通達は、共存同衆の活動に致命的な打撃を与えた。 小野梓をはじ め英国体験を共有した共存同衆の友人たちが、政府に反発を感じながら地位に 汲々とするなかで、あくまでも在野にあって「民心之改革」につとめ、「不羈独 立」の人材を育成し、「社会共同ノ公益」に資するための政治活動をめざす馬場 にとって、共存同衆はもはや拠点としての意味を失っていた。 こうして馬場 にとって、80年が啓蒙活動から政治活動への転機となった。

 自由民権の時代―1881~82年。 81(明治14)年10月11日、民権運動の 高揚に直面していた政府は開拓使官有物払下問題の鎮静化をはかるために、10 月18日開催予定の自由党結成大会に先立って国会開設の詔勅を発表するとと もに、参議大隈重信を罷免した。 この「明治14年の政変」で大久保亡きあ との明治政権は、薩長藩閥中心の色彩のつよい体制に再編され、在野の民権運 動の側でも政党化の動きが急速に促進され、自由党の結成につづいて、82年4 月には大隈重信を中心とする改進党が結成された。 馬場の政治的スタンスは、 藩閥政府による言論・出版や集会の自由にたいする姿勢と真向から対立するも ので、馬場が自由党に参加した最大の理由はここにある。

 法学教育の時代―1883~85年。 85(明治18)年3月まで明治義塾での教 育を中心に活動。 この間、学者に転身する可能性もあった。 83(明治16) 年7月、福澤は慶應義塾に法律科を設ける計画をし、馬場も教員に迎えようと したが、このとき法律科は実現しなかった。 小野梓も、東京専門学校(早稲 田大学)で、同様のことを考えたが、実現しなかった。

 (4)渡米決意―1885年。 85年3月政談演説「東洋気運の説」を行い、西 欧列強のパワーポリティックスに対抗するために日本は、清に「武力を以て外 面より之が刺撃を与へ以て其改良を促す可き」で、「支那を改良し進で西洋諸強 国が侵略の衝に当り東洋の機運を挽回し以て日清の関係を鎮定せよ」と論じた。  しかし、ついで執筆された『条約改正論』追加では、清への期待が薄くなる。  日本国内の政治活動の閉塞的状況のなかで、馬場みずからが新聞・演説で、英 国、米国の輿論の賛成を得、自国人民の輿論を発達喚起すること以外に道はな かった。 しかし英国の世論には失望し、自由の空気みなぎると思える米国へ の期待が高まる。 日本で「人民」は動かず、民権派は相互に非難しあって自 滅、日本学生会、共存同衆、自由党は、もはや期待できない。

 馬場が大石正巳とともに逮捕され半年余拘留された、いわゆるダイナマイト 購入事件は不慮の事故で、渡米は単なる「亡命」ではなく、もっと積極的な意 味を持つものだった。 国際世論を背景に、明治政府の「外からの改革」の必 要性の不可避なことを悟るにいたっていたのだ。