27歳の時書いた「馬場辰猪と福沢諭吉」2016/08/06 06:27

 わが「床屋」史を書いていて、田園調布にいた年を確認したくて、その頃書 いていたものを見た。 当時、第一銀行本店営業部に勤務していたのだが、余 暇に『貯金箱』という個人雑誌をつくっていた。 原稿用紙に万年筆で書いて、 月ごとにまとめ目次をつけて綴じたもので、誰に見せるのでもなく、ただ自分 の楽しみと、まあ勉強のためのものであった。 一年余続いた、その1968(昭 和43)年1月号に「馬場辰猪と福沢諭吉」(原稿用紙14枚ほど)というのを書 いていたのを、見つけた。 すっかり忘れていたが、萩原延壽さんの『馬場辰 猪』(中央公論社 中公叢書・1967年、後に中公文庫)を読んで書いたものだっ た。 まもなく半世紀前となる、私、27歳の時のものである。 全文を、何回 かで紹介したい。

「馬場辰猪と福沢諭吉」

 私は萩原延寿(はぎはらのぶとし)氏の『馬場辰猪』を読むまで馬場辰猪が どんな人であったかを知らなかった。 ただ馬場辰猪がロンドン留学中に福沢 諭吉が送った手紙、小泉信三さんが福沢の国の独立を思う気持を示すものとし てしばしば引用したあの手紙によって、馬場辰猪が福沢の門下生であり、しか も福沢によって高く評価され期待されていた人であったという事だけは承知し ていた。 福沢は書いている。 『……方今日本にて兵乱既に治りたれどもマ インドの騒動は今尚止まず、此後も益持続すべき勢あり。古来未曽有の此好機 会に乗じ、旧習の惑溺を一掃して新らしきエレメントを誘動し、民心の改革を いたし度、迚も今の有様にては外国交際の刺衝に堪不申、法の権も商の権も日 に外人に犯され、遂には如何ともすべからざるの場合に可至哉と、学者終身の 患は唯この一事のみ。政府の官員愚なるに非ず、又不深切なるに非ず。唯如何 ともすべからざるの事情あるなり。其事情とは天下の民心即是なり。民心の改 革は政府独りの任にあらず、苟も智見を有する者は其任を分て自ら担当せざる べからず。結局我輩の目的は我邦のナショナリチを保護するの赤心のみ。…… 日本の形勢誠に困難なり。外交の平均を得んとするには内の平均をなさざるを 得ず。内の平均を為さんとするには内の妄誕を払はざるを得ず。内を先にすれ ば外の間にあわず、外に立向はんとすれば内のヤクザが袖を引き、此を顧み彼 を思へば何事もできず。されども事の難きを恐れて行はざるの理なし。幾重に も祈る所は身体を健康にして精神を豁如ならしめ、飽まで御勉強の上御帰国、 我ネーションのデスチニーを御担当被成度、万々奉祈候也』(明治7年10月12 日)

 ここでの私の問題は、福沢のこの期待にこたえて馬場辰猪が何をしたか、そ れは福沢のやり方とどう違っていたか、はたして馬場辰猪は「我ネーションの デスチニー」を担当したのかどうかにある。(つづく)

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