私の祖母も芸者だった2016/08/22 06:35

 野口冨士男の『風の系譜』(講談社文芸文庫)を読んで、とりわけ心に沁みる ところがあったのには、私の個人的事情があった。 <小人閑居日記>にいろ いろなことを書いてきたが、私小説家ではないので、今まで書いたことはなか った。 他人に話したこともなかった。 後期高齢者となり、いつ死ぬかもわ からない、書いておいてもよいか、と思ったのである。

両親はほとんどその話をしなかったのだが、母方の祖母は名古屋で芸者だっ たようで、ごく若い時に静岡のMという眼科医に落籍されて、妾となり、私の 母とその弟妹を生んだ。 祖父にあたる医者は割合若く死んでいて、私はアル バムの写真しか見ていない。 祖母は私が生れた時には、もう中延のわが家に いて、両親が所帯を持った時、ご近所の人は若かった祖母を「奥さん」だと思 ったということだった。 戦争中の空襲の時も一緒に逃げたし、「お祖母ちゃん 子」と言ってもいいほど可愛がってもらった。 小学校に入る前だろうか、5 歳上の兄がハーモニカを吹いているのがうらやましく、兄と取り合いの喧嘩を し、欲しがったのだが、両親はまだ無理だと言う。 駄々をこねていると、祖 母がおもちゃ屋に連れて行って、買ってくれた。 当然のことに、ハーモニカ はうまく吹けなかったが…。

祖母は、一時期の数年間、母の弟である叔父の家族の面倒をみるために、わ が家を離れていたことはあったけれど、私が結婚して中延を出るまで、一緒に 暮していた。 広尾に越し、有栖川公園の東京都中央図書館で、たまたま人名事典を調べた ら、祖父と曾祖父が出ていた。 けっこうよく書かれていたので、少し嬉しい 気がした。 曾祖父は天保11(1840)年生れ、何と横浜でヘボンに西洋医術を 学んでいた。 偶然、兄も私も弟も、ヘボンの創立した明治学院に通ったのだ った。 横須賀、川崎、清水、掛川、浜松、沼津、吉原などに分院や出張所を 設け、静岡を内外科を併設した医院にしたりして、「人となり仁恕謹厚にして、 眼科の治療に終生を捧げ」、大正3(1914)年に75歳で亡くなっている。 祖父は、その長男で明治8(1875)年生れ、東京帝国大学に学び、眼科を専 攻、同校助手となり、附属病院に勤務した。 父業を継ぎ、眼科研究のため欧 州遊学の途に上り、ドイツ、オーストリーの大学や英、仏の医科大学を視察し て、療法施設の実況を学んだ。 「医術衛生に関する社会事業に盡すところ多 く」「公益のために献身するところ頗る多大」だったとある。 大正10(1921) 年9月に、47歳の若さで亡くなっている。

祖母や父母はもちろん、兄も死んで、そういう話を聞ける人が、身近にいな くなった。 今年1月、年賀状のやりとりから、久しく会わなかった従兄弟、 母方の叔父の息子二人と会う機会があった。 姓は祖母の生まれた家のそれだ。 一時期、祖母が面倒をみに行っていた一家で、兄の方が自分は「お祖母ちゃん 子」だからと言い、少し年下だが、私の知らないことも調べたりして知ってい た。 岐阜の提灯製造の家に生れた(明治29(1896)年か)祖母は、独立心 が強く、美しいのも自慢だったらしく、名古屋に出て芸者になった。 落籍さ れて岡崎へ、叔父は静岡で生まれた。 祖母は、祖父が亡くなった後、二度結 婚している、という。

昭和40年代に入って、母にもう一人の妹が桑名にいることがわかって、そ の叔母の一家との交流が始まった。 昭和53(1978)年5月に母が死に、祖 母は最晩年をその叔母の世話になって、同じ年の12月に亡くなったのだった。