山本周五郎夫人、2歳の子を遺しての死2019/01/24 14:45

 昨日みたように、山本周五郎は、27歳の昭和5(1930)年11月、土生(は ぶ)きよ以(変体仮名)と結婚した。 翌昭和6(1931)年、長男篌二(こう じ)、昭和8年長女きよ、昭和10年次女康子が生まれ、8年後の昭和18年3 月に次男で末っ子の徹が生まれた(私より二つ下の、同年代ということになる)。  だから、昭和20(1945)年5月4日にきよ以夫人が亡くなった時、徹はまだ2 歳になったばかりだった。 『小説 日本婦道記』の年譜には「昭和20(1945) 年42歳 長女と次女は学童疎開、長男は空襲下に行方不明。5月、妻きよ以を 肝臓癌でうしなう。」とある。

 木村久邇典さんの『書簡にみる山本周五郎像』に、山本周五郎とごく親しか った添田唖禅坊・添田知道の『空襲下日記』(刀水書房)の、当時のことを詳し く綴った引用がある。 きよ以夫人の発病から亡くなるまでの経過だ。  2月25日、細君がついに倒れ、山本が煮炊きをしている、相当なものだと言 う、骨身にこたえるらしい。 3月8日、医者に診せたら、盲腸らしいと。 10 日(東京大空襲の日)、医者は盲腸と腹膜なりと、「婦人倶楽部」続婦道記の承 認来て至急との連絡あり(この頃書いていたことがわかる)、小学6年生の長女 きよ昨夜女学校受験のため疎開先の伊東から帰り、末っ子・徹の子守りをして いる。 23日、荏原町を降りて(昨日書いた木村ではなく、添田知道だった)、 エキホスを見つけ、買って山本へ届ける、山本、病人の看護で疲労困憊。 26 日、徹が病人の腹を蹴ったとみえて、昨夜は添田宅へ連れてきたが、病人は具 合悪しと。 4月10日、医者、腹膜の水をとる。 12日、医者、残りの水を とり、尿の出る注射、胃拡張の処置に氷が入用で、困った、と。 13日、氷を 届けると、きよちゃんが臼田坂へ氷屋をきいて行っている、経過はよくないら しい。 14日、医者のダットサンがあり、胃の洗滌中なりと。医師、腹膜リン パ腺が結核性のものでないのは確かだが、癌性の疑いなしとせずと。急性胃拡 張による嘔吐を何とかすることが緊急で、ブドウ糖、食塩の注射。(この日、大 森地区は大空襲に見舞われた) 16日、気になって馳けて行く、山本は無事だ った、病人は花岡朝生(日本画家)へ運んだと。 28日、食道につかえがきて、 吐くと少し楽になるが、またつまるのを感じるらしく、どうも刻々と。 30日、 空襲警報に急いで行くと、意識はますますはっきりして来る、医者は10日ほ ど前、昏迷状態に陥るだろうと言ったのだがと。

 5月1日、細君、寝返りもまったくできず、ほとんどつききりにしていなけ ればならぬ、意識はいよいよはっきりして、肉体は既に骸骨の如し、と。 5 月4日、きよちゃん、手紙持って来たと起こされる、「どうもいかんらしい、 電話(を医者に)頼む」。 医者が診て、まァゆっくりおやすみなさい、と言え ば、細君にっこり笑ったというので、こんな落ち着き払った患者に巡り合うこ とは珍しい、と一旦帰った。 添田が徹を連れ帰って、遊ばせていると、秋山 青磁が来て、赤い眼をしている。 今、10時5分、臨終と。 声なし。

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