豊臣から徳川へ、加賀前田家の動き2016/08/30 06:29

 『真田丸』「応酬」に、病床にいる老衆(おとなしゅう)の前田利家(小林勝 也)と、その嫡男利長(萬雅之)が登場した。 「挙兵」では、徳川家康(内 野聖陽)襲撃に失敗した石田三成(山本耕史)が謹慎させられ、それでも収ま らない加藤清正(新井浩文)、福島正則(深水元基)らを、秀頼の傅役(もりや く)である利家が三成と協力して豊臣家、秀頼を守れと諭す。 しかし利家が 死ぬと、清正らは三成を討ちに行き、三成は身を隠す。

加賀の前田家については、磯田道史さんの『殿様の通信簿』(朝日新聞社)を 読んで、豊臣から徳川へという時代の流れの中をどのように泳ぎ、生き延びた かについて、この日記に書いたことがある。 2014年10月20日から25日ま でで、「加賀百万石の外交戦略」「関ヶ原の戦いと前田利長の動き」「三代・前田 利常の生い立ち」「もう一人の「猿」の出世、徳川・豊臣・前田」「もう一つの 砂時計、前田利長の寿命」「徳川幕府の防衛ラインと譜代大名配置」である。

 その最後の回に「伏見城の戦い」が出て来て、一時は徳川家康が伏見城を守 ったこともあったのを書いていたので、その辺を再録しておく。 

慶長5(1600)年、徳川家康は会津上杉を討伐するため、預かっていた伏見 城から軍を率いて東国へ下ることになった。 留守中に、石田三成が兵を挙げ るのは確実だった。 伏見城に人数は割けない、留守番は確実に死ぬ、「捨て城」 である。 家康軍四万人が東国から戻るまでの時間稼ぎが、その任務だ。 家 康は、忠義心の強い、年老いた家来、内藤家長、鳥居元忠、松平家忠、内藤近 正を選んだ。 彼らの子の一人は、必ず自分が連れて行った。 家康が伏見を 離れると、案の定、石田三成は挙兵した。 伏見城に十万人で攻め寄せた。 立 て籠もった徳川方は千八百人と言われている。 関ヶ原合戦の前哨戦となった 「伏見城の戦い」である。 弓の名人として知られた内藤家長は奮戦したが、 もう無理だと悟ると、猛火の中に飛び込んで焚死した。

 「守りに入るな。徳川とは対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令 せよ」というのが、初代前田利家の一貫した外交方針だった。 二代利長には 「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りしろ」 と厳命していた。  だが、利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。 利長には、の ちに「三州割拠」と呼ばれる、独特の外交戦略があった。 第一に、中央での 政権争いには加わらない。 第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登 の三か国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。 そのうち、中央での政権争いで、 覇者たちが疲れるから、そこに出て行って漁夫の利を占める。 一種の持久戦 法だ。 結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針に なる。

 『ブラタモリ』全国版初期の#3、昨年4月25日放送が「金沢」「加賀百万石 はどう守られた!?」だった。 前田家が金沢を、徳川の攻撃に備えて、どの ようにつくったかという話であった。

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