徳川との戦いに備える金沢「惣構」2016/08/31 06:11

 「関ヶ原の戦いと前田利長の動き」は<小人閑居日記 2014.10.21.>に書い ているが、慶長3(1598)年8月に秀吉が死去、慶長4(1599)年閏3月に前 田利家が死去すると、9月前田利長に謀反の噂が出、その冬、徳川と前田の和 睦交渉が始まる。 利家の妻まつが徳川の人質となり、慶長5(1600)年春、 和睦に成功、前田は最大のピンチを脱する。

謀反の噂が出た前田利長は、徳川との戦争に備えて、慶長4年にキリシタン 大名として知られる高山右近に命じて「惣構(そうがまえ)」をつくらせた。 1 か月で造ったと伝えられている。 金沢城を中心とした城下町を囲い込んだ堀 や、堀の城側に土塁(土居)を築いたこれが、「内惣構」である。 さらに三代 藩主前田利常が慶長15(1610)年に家臣の篠原一孝(かつたか)につくらせ たのが「外惣構」、金沢城の堀も含めると三重の防衛ライン、堅固な守りとなる。

 『ブラタモリ』#3「金沢」は、加賀百万石の城下町の繁栄を守った仕掛けを 探り、まず長町武家屋敷跡からこの「惣構」の痕跡を探した。 豊臣秀吉が五 奉行の上においた政権の最高機関である五大老(老衆(おとなしゅう))、5人 の有力大名の関ケ原前後の石高をくらべると、徳川家256万石→400万石、前 田家83万石→120万石、宇喜多家57万石→×、上杉家120万石→30万石、 毛利家120万石→37万石と、大きくなって残ったのは徳川家と前田家だけだ。

 金沢の道は、70%が道幅は二間(3.6メートル)と、江戸時代の道幅が残っ ているという。 外道(そとみち)に沿い川(堀)があり、段差がある。 河 岸段丘の上に土塁(8m~10m)が築かれ、内道があって、城の方向となる。  「内惣構」が全長3キロメートル、「外惣構」は全長7キロメートルに及ぶ。  その道や段差、つまり「惣構」の痕跡は、近江町市場の中でも、上近江町のス ーパーの中でも確認できた。

 城へ向かうのには、北国街道の香林坊橋のところに、香林坊の木戸があった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック