昆野和七さんの小泉信三さん追悼文2017/01/10 06:27

つぎに紹介したいのは、国分良成さんの講演の最後に「槙智雄先生の追憶」 を書いたとお名前の出た、昆野和七さんの、小泉信三さんを追悼した文章であ る。 昆野和七さんは、私が知っていた頃には、福澤諭吉協会の編集委員(昭 和48(1973)年の創立当初から)を務めていらっしゃって、『福翁自伝』の校 注、『福澤諭吉年鑑』の研究文献目録(第1巻~13巻)がある。

 その文章は、昭和41(1966)年9月10日刊の『小泉信三先生追悼録』(新 文明社)の「福沢諭吉書翰と小泉先生」である。 まず小泉信三編著『福沢諭 吉の人と書翰』(慶友社版・昭和23(1948)年5月)の出版の経過が語られる。  健康上の理由で約1200通の福沢書翰を読み解題をつけることを渋っていた小 泉さんに、昆野さんが先年つくっていた福沢書翰年月別の綴込みと、それに関 するノート一冊のメモ、その中から300点を選定したものを提供し、それに解 題を付けてもらうことで、小泉さんは出版に踏み切ったのであった。 小泉信 三さんが福沢物を書く場合、親疎の差はあるけれど、昆野和七さんに相談し、 その手伝いを受けていたようだ。 私は、清家篤塾長が式辞や講演にあたり、 小室正紀さんに相談されると聞いたことを思い出した。

 この本が出版されて間もない昭和23(1948)年6月11日、昆野さんの生れ て2年8か月の三男が、石につまずいて転んだ拍子に、隣家の畑の雀おどしの 竿竹が倒れていたのに、左眼を突き刺してしまった。 突端は深く刺さって折 れた。 内科医(義兄)でそれを抜き取ってもらって、慶応病院へ。 眼科の 桑原安治博士の執刀で眼球は抜き取らずに済んだ。 桑原先生は「一生大変だ なあ。目玉を助けてみましょう」といい、その瞬間が三男の生涯を左右した。  翌日から部長の植村操博士の診断治療を受けた。 内部の傷が深いため助けた 左眼が悪化すれば、健康な右眼も失明する恐れがある。 その時には、左眼を 抜き取るという。 そのとき奥さんは臨月で、打撃は甚だしかった。 1か月 を経過してどうやら峠を越して7月12日、一応退院したが、奥さんが産気づ いて、入れ代わって入院した。 ショックのため難産であったが、二女が生ま れた。

 7月25日、川久保孝雄氏が小泉先生の使いで来訪、黙って受け取ってくれと いって、手紙に添えて分厚い角封筒が手渡された。  「昆野学兄 (中略)お子様の御怪我、きくも肝つぶるる許りにて、貴兄御 夫婦の御心中いかあらんかと推察のあまり、しば\/愚妻と語り合いました。 先日来、一度丘を越えて御見舞ひと存じながら、此頃意外に来客多く、また屡々 雨に妨げられて果たしません。どうぞ、少しでも宜しき方へ好転せらるるやう と祈り上げます。貴兄自身、心を励まし、奥様を励まされたく、怱々一筆、如 斯御座候。    不一            七月二十五日 小泉信三」

 「各封筒の金子は、百円札で四十枚であった。当時まだ千円札はなく、百円 の偉力が大きかった時代である。印税の一部を恵与されたものらしい。川久保 氏来訪のその日の夜正七時に、私は小泉邸の玄関のベルを鳴らした。先生自身 で出てこられた。待っていられたらしい。大きな声で「やあ」といった。こん な大きな声をあとにも、先きにも聞いたことはなかった。金の礼をいいかけた ら劇しく手で抑えられた。応接間で先生御夫妻から交々、矢つぎばやに尋ねら れるままに話した。突然、先生は、  「ああ、眼がぢきぢき痛んできた。あなた方がお子さんを抱いて病院に着い たときに、眼科の桑原君が折よく居合わせたことは、何んといっても幸運でし たね。私も空襲のとき、桑原君に眼を救ってもらいました。そのとき、植村君 がこういいましてね。「あの男はづう体は大きいけれども、私より手先は器用で す。何をやらしても、私より巧いんです。御安心下さい」とね。あの植村君が 讃めるんですから、確かなものです。桑原君は私が保証します。御子さんは必 らず治りますよ。」

 子供が退院するとき、桑原先生は短い言葉でこう語った。「目玉が一つ助かり ましたね。大きくなって本人が気にさえしなければ、片目で立派にやって行け ますよ」と。そういわれた三男(信也)は、目のことを少しも気にせずに育っ た。いまでは理工学部の応用化学科に在籍している。応化の外にも何かを修め て終世、研究生活をしようかと、心に誓っているようである。」

 「昆野信也」でネットを検索してみたら、埼玉県公害センターなどの論文が 出て来た。