サトウの日本語文献収集<小人閑居日記 2017.1.23.>2017/01/23 06:31

サトウの日本語文献収集<小人閑居日記 2007. 12.12.>

林望さんの「旧蔵書から見たサトウと日本」のつづき。 アーネスト・サト ウの日本語勉強がどのくらいすごかったかは、福沢も行った幕府遣欧使節の市 川清流(渡)が文久3(1863)年に書いた『尾蠅(びよう)欧行漫録』の翻訳(つ まり英訳)を、サトウが翌年、つまり彼が横浜に来てから1年半後に完成して いることでもわかる。 サトウが来た頃の日本人はみな毛筆で書いていた。 日 本語を読もうと思ったら、草仮名か漢文か、いずれにしてもくずした字で書か れたものを、読まなければならなかった。 サトウは最初お家流の書道を習い、 ついで高斎単山という人に唐様の楷書を習う。 サトウは「英国静山書」と署 名して「薩道氏」や「静山」のはんこを捺しているが、「静山」という号は、高 斎単山の命名で号記も残っている。 アーネストを意訳して「佐藤懇(こん)」 の印もあり、ある幕臣(林さんは勝海舟かと)から「佐藤懇之進」という名前 を賜ったという。

サトウは、日本語の書物を集めたが、その集め方が尋常ではない。 明治元 (1868)年、初めて京都に行き、医師のウィリスは負傷者(鳥羽伏見の戦いか?) の治療に当ったが、サトウはたった一人の護衛を連れただけで、三条通の本屋 に行っている。 サトウの集めた本の特色は、片寄りがないということ。 あ らゆる分野の、あらゆる本が集められている。 分類すらない時代だから、そ れはたいへんなことだった。 自分で、片っ端から読み、自分で目録を作った。  「サトウ蔵書目録」は三種類あり、自筆のものや、白石澄江(ちょうこう…サト ウの謡曲の師で幕臣・白石島岡の息子で、サトウの家で文献収集の秘書・図書 係のようなことをした)筆のものがある。 サトウはおそらく5万冊ほどの日本 の文献を収集したと思われる。 それほど日本文化、日本文学への尊敬の気持 が強かった。 のちにウィリアム・ジョージ・アストンが『日本文学史』とい う本を書く必要から、サトウは1万冊を無償で貸与する。 それが林さんが目 録をつくったケンブリッジ大学のアストン文庫になった。