柳家権太楼の「文七元結」下2019/01/06 08:24

 文七は、どこへ行ったんだろう。 もう、みんな寝てくれ。 文七が戻って 参りました。 こんな晩くまで、お前どこへ行っていたんだ。 小梅の水戸様 で五十両、集金して参りました。 文七、こっちをお向き。 お前はいい男な んだが、碁が好きだ。 今日も、中村様と碁を打っただろう。 お前が帰った 後、碁盤の下に五十両があった。 中村様が届けて下さったんだ。 それなの にお前も五十両持って来た、〆て百両だ。 何だ、これは? 番頭さん、大変 です、娘が瘡(かさ)を掻きます。 お前に、娘はいないだろう。 お金を盗 られたと思って、吾妻橋で身を投げて死のうとしたら、女の着物を着た職人風 の人が、私を助けてくれて、五十両下さったんです。 十七になる、お久さん という娘さんが吉原の何とかいう店に、身を売ったお金だそうで、そのお金を 私にぶつけて、逃げて行ってしまったんです。 いい話を、聞かせてくれた。  盗って逃げるというのはあるが、ぶつけて逃げるとは、江戸っ子だ、とても私 たちのような商売人には出来ることじゃない。

 それで、お前、その方の処とお名前を聞いてないのか。 何という馬鹿だ。  文七、吉原の店の名を聞いたのか。 聞いたんなら、思い出すだろう。 五十 両を即座に出せるってのは大店、大籬(まがき)だ、松葉屋、半蔵松葉、玉屋、 玉屋山三郎(さんざぶろう)、三浦屋、佐野槌。 番頭さん、もう一度。 松葉 屋、半蔵松葉、玉屋、玉屋山三郎、三浦屋、佐野槌。 そう、佐野槌です。 旦 那様、佐野槌でございます。 それはよかったけど、番頭さん、あんた吉原の こと、ずいぶん詳しいんだね。

 お久が拵えてくれたお金を、どこへやったんだよ。 何度も言ってるじゃな いか、死ぬっていうから、吾妻橋で、その野郎にくれてやったんだ。 お前さ ん、どこで、すったんだよ、私が一両でも、二両でも、取り返してやる。 わ からねえよ、どこの誰だか。 人が来てるぞ。 お前は屏風の裏に隠れていろ、 尻丸出しじゃあ、みっともない。 ちょっと、待ってくれ! 

 今、開けちゃあ駄目だ。 開けたら、目の中に手を突っ込んで、掻き回す。   長兵衛親方のお宅は、こちらですか。 横山町三丁目の鼈甲問屋でございます が、こちらの親方が私どもの若い者を助けて下さった。 親方、この若者に覚 えはございませんか。 ゆんべ、命を助けて頂いた文七でございます。 お前 だ、よく出て来てくれた。 幕が閉まらねえところだった。 親方のように清 い行いをして下さる方はおりません、すんでの命を助けて頂いて、有難うござ いました。 文七は碁が好きで、集金を碁盤の下に置き忘れてきたんです。 何 を、この野郎、お前んとこは、それで済む、俺んとこは、ゆんべから寝てない んだ、冗談じゃねえ。

 つきましては五十両のお金は、お返しいたします。 江戸っ子が一度出した ものだ、受け取れねえよ。 その若え者も、いずれ店を出すんだろうから、そ の足しにしてくんねえ。 そうは参りません、お収め下さい。 (枕屏風の陰 の女房に引っ張られて)わかってるよ。 みっともねえことは、したくねえん だけど、こっちもいろいろ大変なことがあってな、じゃあ、ありがたくもらっ とくよ。

この者は、私の遠い親類でして、親方には、命の親として、この者の後見に なって頂きます。 私共も、親方と親類付き合いをさせて頂きたい。 お金を 借りに行くかもしれねえよ。 角樽、酒屋の切符、それと肴でございます。 親 方のお気に召すかどうか。 一丁の駕籠が路地に入ってきた。 垂れを開けて、 娘のお久が出て来た。 佐野槌の女将が、腕によりをかけて、絹づくしに着飾 らせ、綺麗に化粧をしている。 こちらの旦那様に身請けをされて、戻って参 りました。 この肴、お気に召してでしょうか。 ありがとうござんす。 お っ母さんは? 腰から下は、何にも穿いてないけれど、我慢できずに飛び出し てきて、親娘三人抱き合った。

 この文七が、店を出す時には、お久さんを頂けますでしょうか。 あげるよ、 あげるよ、一緒に、お袋も付ける。

再び山本周五郎にはまる2019/01/07 07:10

 第一回は、今日7日の午後3時までだが、パソコンの「ストリーミングを聴 く」や、スマホの「らじるらじる」「聴き逃し」で聴けるNHKラジオの「朗読 の時間」、「山本周五郎作品集」がおすすめだ。 暮から新年にかけて、寝しな に聴いて、すっかりはまってしまった。 文学座の俳優・田中宏樹さんの朗読、 「艶書」「金作行状記」「本所霙(みぞれ)河岸」の三作品である。 物語の意 外で巧な展開、人間味を感じさせる登場人物たちに対する暖かい視線、そこは かとないユーモア、いかにも山本周五郎らしい魅力に溢れている。

 昨年、末盛千枝子さんが新潮社の『波』に連載された「根っこと翼・皇后美 智子さまに見る喜びの源」については、9月7日から三日間の当日記に記した。

「根っこと翼・皇后美智子さまに見る喜びの源」<小人閑居日記 2018.9.7.>

皇后様と島多代さん・小泉信三さん<小人閑居日記 2018.9.8.>

皇后様、文学・芸術の豊かな人脈<小人閑居日記 2018.9.9.>

 そこに書けなかった話に、渡邉允さんという侍従長のエピソードがあった。  渡邉允さんは外交官だが、1996(平成8)年から2007(平成19)年まで侍従 長を務めた。 末盛さんは連載の第3回(3月号)で、渡邉允さんが外交官と してワシントンに駐在していた時期に、島多代さんもあちらにいて親しかった、 皇后様の『橋をかける』のロシア語版が出版され、ロシア大使館で盛大な出版 記念会が催された時にも、渡邉允侍従長が皇后様の代理として出席してくれて 有難かった、という。 そして、あの一連の時期の侍従長が渡邉さんでなけれ ば、インドでのビデオの基調講演も、皇后様のバーゼル行きも実現が難しかっ たのではないかと思っている、と書いている。 さらに、一度何かの時に渡邉 さんにそう申し上げたら、「そうかねえ、そんなことはないと思うよ」と、さり げなく言っておられた。 そう書いた後、末盛さんは、話をこう結んでいた。  「渡邉さんはアメリカを離れる時に、山本周五郎の『墨丸』を英訳し、冊子に して、友人たちに置いてきたという。」

 それを読んだ時、私はさっそく、「墨丸」を読み直すために、書棚の『小説 日 本婦道記』(新潮文庫)を取り出したのだった。

「墨丸」の岡崎とその時代2019/01/08 07:22

 「お石(いし)が鈴木家へひきとられたのは正保(しょうほう)三年の霜月 のことであった。江戸から父の手紙を持って、二人の家士が伴って来た、平之 丞(へいのじょう)は十一歳だったが、初めて見たときはずいぶん色の黒いみ っともない子だなと思った。」と、山本周五郎の「墨丸」は始まる。 お石は五 歳、父上の古い友人のお子だが、ご両親とも亡くなった、よるべのない気のど くな身の上、これからは妹がひとりできたと思って劬(いたわ)ってあげて下 さい、と母は平之丞にいう。 鈴木家は、岡崎藩の老職の家柄で、屋敷の五段 ほどもある庭には丘や樹立や泉池などがあり、同じ年ごろの友達との恰好の遊 び場だった。 お石は、起ち居もきちんとしたはきはきした子で、みなしごと いう陰影など少しもなく、云いたいこと為たいことは臆せずにやる、爽やかな ほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた。 友人達は、その性質がわかるに したがって、しぜんと好感をもつようになり、よく仲間にして遊びたがった。  それにしても、色が黒いので、少年たちは「お黒どの」とか「烏丸」とか陰で 色いろ綽名を呼んだ。 平之丞は、気にもならなかったが、或るときふと哀れ になり、どうせ云われるならこちらで幾らかましな呼び方をしてやろうと思い、 「黒いから墨丸がいい」と主張した。 「すみまる」という音は耳ざわりもよ いし、なにごころなく聞けば古雅なひびきさえある、それで少年たちはみなそ う呼ぶようになった。

 江戸詰めの年寄役だった父の惣兵衛が、それから六年めの慶安四年に岡崎へ 帰って来た。 国老格で吟味役を兼ねることになったのである。

 ここでちょっと小説を離れて、岡崎のことを見てみる。 徳川家康の生誕地 として知られる西三河地方の中心都市である。 岡崎城は三河守護代西郷稠頼 (つぐより)が康正元(1455)年に築き、のちに松平清康(家康の祖父)が入 城し、本格的な城下町をつくったのは天正18(1590)年田中義政だった。 江 戸時代には五万石の城下町、本多、水野、松平(松井)、本多の歴代城主は譜代 大名で幕府の要職についた。

 「墨丸」に出てくる藩主、「けんもつ忠善」と、その世子「うえもんのすけ忠 春」は、水野氏である。 水野忠善は正保2(1645)年に三河吉田から入部し、 二代水野忠春は幕閣の奏者番・寺社奉行に就き、多額の経費が掛かったという。  正保2(1645)年は、お石が鈴木家に来る前年である。 その年、数え十歳だ った鈴木平之丞は、寛永12(1635)年生れという勘定になる。 寛永14年に は島原の乱があり、時代は慶安-承応-明暦-万治-寛文-延宝-天和-貞享(じょうき ょう)と変わり、貞享2(1685)年には五代将軍徳川綱吉の、例の生類憐みの 令が出ている。 貞享2(1685)年は、平之丞五十歳の時で、「うえもんのすけ 忠春」の側がしらに任じられ、その出頭を妬む者から讒訴されて、老臣列座の 鞠問(きくもん)をうけたが、私行のうえの根も葉もない事だったので、すぐ に解決し、右衛門佐の侍臣ちゅうでは無くてはならぬ人物に数えられるように なった。 貞享5(1688)年9月30日、東山天皇の即位で、元禄元年となる、 そんな時代であった。

平之丞がお石を恋し、嫁にと望むが、去られる2019/01/09 08:18

 「墨丸」のつづき。 父の惣兵衛が岡崎に帰ると間もなくから、お石は榁(む ろ)尚伯という和学者のもとへ稽古に通い、歌など作るようになった。 母に 見せられた萩を詠んだ一首に、墨丸と記しているのをみつけ、平之丞は心にか すかな痛みを感じた。 十三歳になったお石が思い詰めた様子で平之丞の部屋 に来て、平之丞が祖父にもらい大切にしていた牡丹の葉と花を浮き彫りにした 翡翠の文鎮を貸して頂きたいと言ったので、渡してやった。 鈴木家には、惣 兵衛の好みで、しばしば旅の絵師や畫家などが滞在した。 なにがし検校とい う琴の名手が、あしかけ四年あまりも滞在し、そのあいだにお石に琴を教えた。  検校は、特殊の感覚を持つお石の恵まれた素質を褒めたが、その道で身を立て られるかという父の質問に対し、お石の琴は人を教えるには格調が高すぎて、 なかなかな耳ではついていけない、と云った。

 十七になったお石を、花見の宴で着飾った十人ばかりの娘たちの中で見た平 之丞は、際だって美しいと思った。 お石のぜんたいから滲みでるもの、内に あるものがあふれ出る美しさだった。 お石を見なおすようになると、事の端 はしに、お石の心ざまの顕れをみつけてはおどろく例が少なくなかった。 人 の気づかないところ、眼につかぬところで、すべて表面よりは蔭に隠れたとこ ろで、緻密な丹念な心がよく生かされていた。 注意して見るにしたがって、 そういうことの一つ一つが平之丞の眼を瞠(みは)らせ、云いようもなく心を 惹きつけられた。 平之丞は母に「あれなら鈴木の嫁として恥ずかしくないと 思いますが、どうでしょうか」と相談した。

 父も初めは難色をみせたが、よかろうと承知し、はじめて母からお石に話を した。 するとお石は考えてみようともせず、きつくかぶりを振って断わった。  それから母は、色いろ条理をつくして説き、よく考えてみるようにと云ったが、 お石はいつものおとなしい性質に似あわない頑なさでかぶりを振りつづけた。  「それにわたくし近ぢかにおゆるしを願って、京の検校さまの許(もと)へま いりたいと存じていたのですから」 まさかと、裏切られた人のように眼をい からせる母をなだめながら、平之丞がいちど自分からじかに話してみようと考 えた。 然しそのおりも来ないうちに、突然父が倒れた、城中で発病し、釣台 で家へはこばれて来たが、意識不明のまま三日病んで死去した。

 悲嘆のなかでも平之丞はとり返しのつかぬことをしたのに気づいた。 それ はお石の素性が知れずじまいになったことだ。 母も「旧知の遺児である」と しか聞いていなかった。 忌が明けると間もなく、お石はついに鈴木家を出て 京へのぼることになった。 お石がたのんだのだろう、和学の師・榁尚伯がき て、母と平之丞を説き、「琴のほかに学問も続けたいと云っておられるし、さい わい京には北村季吟と申す学者がおり、以前から親しく書状の往来があるので、 私から頼めばせわをしてくれることでしょう、お石どのは国学にも才分がおあ りだから、場合に依ればこのほうでも身を立てることができると思います」ど うか望みをかなえてお遣りなさるように、老学者らしい朴訥な口ぶりでそう云 うのだった。 お石は泣かず、信じられないほどあっさりと、まるで旅人が一 夜の宿から立ってゆくかのように、さばさばと鈴木家から去っていった。

 小説から脱線して、北村季吟だが、川口祥子さんの「柳沢吉保と六義園」と いう講演で聴いて、<小人閑居日記 2018.10.11.>に「「古今伝授」北村季吟 →柳沢吉保、「六義園」」というのを書いていた。 元禄2(1689)年、北村季 吟が66歳で幕府歌学方になったのが、柳沢吉保(32歳)との出会いだったそ うだ。

藩の秘事と「八橋の古蹟」で2019/01/10 07:16

 平之丞がお石を見直した花見の宴で、藩の秘事に関する噂が友人達の話題に 出た。 藩主水野家の世子右衛門佐忠春が水戸の御胤(おたね)だという噂だ。  忠春は、けんもつ忠善の次子だが、長子の造酒之助(みきのすけ)が早世した ため世継ぎとなった。 忠善が水戸中将(光圀)に心酔していて、そのあまり 懇願して、誕生前から御子を頂戴する約束をし、出生すると産着のまま屋敷に お迎えした、その証拠に右衛門佐のお守りは葵の御紋ちらしだというのだ。 そ れについては、もう一つの秘事があり、十余年前に江戸屋敷で小出小十郎とい う者が切腹した。 小出は、島原の乱でめざましく働いた浪人で、忠善に見出 されて篤く用いられた。 非常に一徹な奉公ぶりで知られ、重代の者にも云え ないような諫言をずばずば云うし、家中とのつきあいなども廉直無比で名高か った。 それが忠善の忿(いか)りにふれて生涯蟄居という例の少ない咎めを うけたが、その命のあった日に切腹した。 実は造酒之助在世中で、小出は御 家の血統のため、右衛門佐を廃し、造酒之助を世子に直すよう、繰返し直諫し たので、忠善が「あらぬことを申す」とひじょうに忿り、重科を仰せ出された という。 平之丞は話をさえぎり、「殿があらぬことを申すと仰せられたのなら それが正しいに違いない、そういう噂は聞いた者が聞き止めにしないと、尾鰭 がついて思わぬ禍を遺すものだ、ほかの話をしよう」と云った。

 平之丞は二十七歳の時、花見の宴を催した友人の妹を娶った。 平凡だが温 かいしずかな結婚生活だったが、六年目の秋、三人目の子を身ごもったまま、 あっけなく世を去ってしまった。 母が丈夫で二児の養育を引き受けてくれ、 再婚はしなかった。 三十二歳で忠春の側がしら、四十五歳で国老に任じられ、 藩の中軸といわれる存在となった。

こうして平之丞は五十歳になった。 忠善はすでに逝去し、忠春が従五位の 右衛門太夫に任じていた。 その年の秋、公務を帯びて京へのぼった帰りに、 岡崎までもう三里という池鯉鮒の駅に着いたとき、彼はその近くに名高い「八 橋の古蹟」という名所があるのを思い出した。 伊勢物語の一節など思い出し ながら、むかし杜若のあった跡だという丘ふところの小さな池をめぐり、業平 塚なども見てやや疲れた彼は、すぐ近くにひと棟の侘びた住居のあるのをみつ け、暫く休ませてもらおうと思ってその門をおとずれた。 折戸を明けて庭へ はいると、縁先に切下げ髪にした中年の婦人がいて、請うとしとやかに立って、 「どうぞお掛けあそばせ」とそこへ座を設けた。 平之丞は、縁さきまで来る とはっとして立ちどまった。 そしてわれ知らず昂ぶったこえで、「お石どので はないか」と叫んだ。 婦人は眼をみはってこちらを見たが、「ああ」とおのの くような声をあげ、まるで崩れるようにそこへ膝をついた。